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銃剣(bayonet)とは、歩兵が使う銃の先端部に装着できるように設計された短剣のことです。銃剣を銃兵に配れば、銃によって射撃する能力を保ちつつ、槍兵として敵と交戦することも可能です。時代錯誤な武器だと思われるかもしれませんが、現代の軍隊でも銃剣を使った格闘訓練は広く実施されており、例えば敵の陣地に突入し、敵兵と肉薄するような場面において、銃剣格闘の技術が使われることは皆無ではありません。
今回は、ヨーロッパの歩兵戦の文脈で銃剣格闘の技術がどのように議論、考察されてきたのかを示すために、いくつか代表的な著作を取り上げてみたいと思います。資料の制約から日本陸軍における銃剣道の歴史について述べることができていないことはご了承ください。
陸軍史において歩兵の改革は常に重要な課題でしたが、16世紀にマスケット銃が普及した際には、特に大きな改革が必要になりました。マスケット銃は当時としては強力な威力を持つ小火器ではありましたが、次弾を装填するために1分程度の時間がかかるため、その間に敵の騎兵や歩兵の突撃に対して無防備でした。
したがって、その間は味方の槍兵で敵の歩兵や騎兵の突撃に対抗するという必要があり、このため銃兵と槍兵は戦場でいつも相互支援が可能な距離にいなければなりませんでした。ただ、16世紀の後半に銃剣が開発され、戦場で銃兵を槍兵として運用することが可能であることが明らかになると、歩兵はもはや銃兵と槍兵に区分されなくなりました。銃剣によって両者の機能が統合されたのです。
これが銃剣の歴史の始まりになりますが、これまでの軍事史の研究成果を見る限り、銃剣が導入されたからといって、その直後から銃剣格闘の技術が急速に発達したと見なすことはできません。これは近世の歩兵が戦列を組んで集団で交戦していたためだと考えられます。銃剣の使用については非常に簡単にしか議論されていませんでした。例えば、スコットランドの軍人ハンフリー・ブランド(1686~1763)は『軍事規律論考(Treatise of Military Discipline)』(1724)という著作では歩兵の教練の一部として銃剣の操作について言及していますが、その記述は非常に簡潔です。アメリカの軍人ウィリアム・ハーディ(1815~1873)の著作『ライフルと軽歩兵の戦術(Rifle and Light Infantry Tactics)』(1855)でも銃剣格闘に関しては簡単に触れているにすぎません。ハーディがこの著作で述べているのは、歩兵によって銃剣突撃を仕掛ける攻撃の方法と、騎兵と歩兵に対する銃剣を使った防御の方法であって、個々の兵士が使用する技術には踏み込んでいません。
ただし、一部の軍人は18世紀の後半から銃剣格闘の技術を改善できる可能性を認識するようになりました。18世紀のフランスの軍人ギベール(1743~1790)は銃剣の使い方をより改善することが可能であり、そのためにフェンシングの技術を導入できるという着想を得ていました。1804年から1815年まで続いたナポレオン戦争を通じて、銃剣格闘を歩兵戦の技術として位置づけ、これを専門的に研究し、これを訓練する軍人が現れるようになり、この着想は具体化されることになりました。ドイツの軍人セルムニッツ(Eduard von Selmnitz, 1790~1838)はこの分野の先駆者として著作『銃剣術(Die Bajonnetfechtkunst)』(1825)を発表しました(Selmnitz, E. von. 1825. Die Bajonetfechtkunst oder Lehre des Verhaltens mit dem Infanterie, Dresden)。これは図解を交えながら構えやさばき、刺突、斬撃、打撃などの基礎技術をまとめており、近代的な銃剣格闘の技術を論じた最初期の著作として見なすことができます。
19世紀の中頃には、ドイツだけでなく、フランスでも銃剣格闘の著作が出版されるようになりました。A. J. J. Posselierについて分かっていることは何もないのですが、彼が筆名を使って出版した『銃剣の剣術(L’Escrime à la Baionette)』(1847)はフランスの剣術の考え方を銃剣格闘に持ち込み、その技術を体系化しようとしています。訓練においてフェンシングで使用するマスクを使用することなどが提案されているなど、実用的な著作に仕上がっていました。この著作はアメリカの軍人ジョージ・マクレラン(1826~1885)の著作『銃剣訓練の教範(Manual of Bayonet Exercise)』(1852)によってアメリカ陸軍に持ち込まれることになりました。これはヨーロッパ大陸の銃剣格闘の技術が世界的に広まる上で重要な一歩でした。
アメリカと対照的なのがロシアであり、ロシア陸軍はフランスやドイツの銃剣格闘の技術を取り入れたことが研究資料からも確認することができません。ロシア陸軍で銃剣の価値が強調されていたことなどを考慮すると、これは不可解なことであると思えます。今後さらに研究される必要があるでしょう。
こうして銃剣格闘の訓練は列強の間で普及しましたが、19世紀の末から20世紀の初頭において、銃剣格闘の軍事的な価値をめぐる議論が持ち上がりました。この論争を呼び起こしたのは日露戦争における日本陸軍の戦例です。日本軍はフランス、あるいはドイツのシステムで訓練された銃剣格闘の技術を取り入れていましたが、ロシアはそうではありませんでした。そのため、近代的な要塞を攻略する上で銃剣格闘の効果で説明できるのではないかという解釈が出されることになり、これは第一次世界大戦まで根強い影響力を保ちました。例えばイギリスの軍人ロナルド・キャンベル(Ronald B. Campbell, 1878-1963)は1910年7月に『カナディアン・ミリタリー・ガゼット(The Canadian Military Gazette)』に掲載した論文「銃剣戦闘の戦術的重要性(The Tactical Importance of Bayonet Fighting)」で、既存の銃剣格闘の技術を見直し、訓練の仕方も見直すように主張しました。
キャンベルの説によれば、従来の銃剣格闘の考え方では、右手で銃を固く握り、左手は緩く握り、刺突するときには左手を滑らせて右手で銃を押し込むことが推奨されていましたが、キャンベルは両手でしっかりと銃を保持することが必要だと述べました。また、それまでの銃剣格闘では剣先を見立て、ゴムの玉を付けた木銃を訓練で使っていましたが、キャンベルはこれは実戦で役に立たないと主張しました。キャンベル方式の銃剣格闘の訓練はボクシング形式で徒手格闘の訓練を教えるところから始まりました。そのあとで銃剣と銃が与えられ、土嚢を刺突する訓練が行われました。訓練ではラバの死体や人形を遣うこともあり、武装障害走の要素としても取り入れられました。このような訓練はイギリスだけでなく、第一次世界大戦でアメリカ陸軍にも導入されましたが、1920年代の予備役の銃剣訓練で毎年1名から2名の死者を出していたことから1926年に廃止されています。
1941年に第二次世界大戦に参戦してから、アメリカ陸軍は銃剣訓練を再開していますが、この頃までには銃剣格闘の技術を異分野の格闘の技術と組み合わせ、より総合的な軍隊格闘の技術を構築することが試みられるようになっていました。例えば、ビドル(Anthony Joseph Drexel Biddle, 1874~1948)の著作『やるか、死ぬか(Do or Die)』(1937)は徒手格闘から武器格闘までを包括的に取り入れた著作となっており、武器格闘の一種として銃剣格闘が位置づけられています。第二次世界大戦以降の銃剣格闘の歴史に関しては、資料の制約から十分に後を追うことができません。第二次世界大戦の最中に銃剣格闘の訓練と研究に取り組んだサイドラー(Armond Seidler, 1919~2016)の業績は冷戦時代のアメリカ軍でも広く採用されていますが、銃剣格闘の技術は他の格闘の技術と総合されているようですが、彼の業績を知ることができる資料は見当たりません。
軍事学の研究領域の中でも、銃剣格闘の歴史に関する文献には偏りがあり、なかなか全体像をつかむことが難しいと思います。独自に調査してみたい方であれば、出発点としてJoseph Svinth, 2010. Bayonet Training in the United States, Thomas A. Green and Joseph R. Svinth, eds. Martial Arts of the World: An Encyclopedia of History and Innovation, ABC-CLIO, pp. 568-573.を推奨します。だと思います。この記事の内容は基本的にこちらの資料に依拠しています。
James F. Blanton, 2008. Hand to Hand Combatives in the US Army, Master’s Thesis, Fort Leavenworth.
武内和人
※この記事はご質問者様のご協力を得て作成しました。ご協力に感謝を申し上げます。
2021年5月21日