マカロフ

マカロフ

ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ(Stepan Osipovich Makarov, 1848年12月27日 - 1904年3月31日 )はロシアの海軍軍人。海軍の戦略・戦術の研究で知られている。

経歴

ロシア領ウクライナのニコラーエフ(現ムィコラーイウ)出身。軍人の家に生まれ、幼い頃にニコラエフスク・ナ・アムーレに移住した。士官候補生として海軍に入ったのは1863年であり、教育訓練を経て1866年から部隊で勤務し始めた。

最初に配属された太平洋艦隊では、コーベット「アスコルド」に乗組み、日本海に面するウラジオストクからアフリカの南端にあるケープタウンを経てクロンシュタットに至る遠洋航海に参加した。1867年に配属されたバルト艦隊ではアンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・ポポフ(1821-1898)の下で勤務し、1876年に黒海艦隊に配属された。その翌年に勃発した露土戦争(1877-78)では水雷母艦「コンスタンチン大公」艦長に着任して指揮をとり、1月16日の戦闘では史上初の雷撃を実施した。1879年からはロシアの中央アジア遠征に参加している。

1886年にコルベット「ヴィーチャシ」の艦長として着任し、1889年に世界一周の調査航行を成功させた。その後、地中艦隊司令官、海軍訓練監察官を歴任した。1896年からは北極海航路を開拓するための砕氷艦の研究開発に従事し、砕氷艦「イェルマーク」の建造を監督した。この艦は近代的な砕氷艦としては世界初のものであり、これが建造されたことは、その後のロシア海軍の北極海探検にとって大きな成果となった。1897年にはバルト艦隊の司令長官を務めたが、1901年に「イェルマーク」艦長として北極海探検の指揮をとり、ヨーロッパ最北東に位置するノヴァヤゼムリャ沿岸部と北極海に位置するゼムリャフランツァヨシファ沿岸部を探検した。

1904年に勃発した日露戦争では、太平洋艦隊司令長官に就任した。4月13日の戦闘では旗艦である戦艦「ペトロパブロフスク」で指揮をとっていたが、旅順港に退却する際に機雷に接触しことによって艦は沈没し、マカロフも戦死した。

思想

海軍士官としてのマカロフは、海軍の運用を戦略と戦術の二つに区分し、「戦略および戦術は別に自己の科学と技術を有する」と考え、「戦術は戦闘につきての科学」であり、「海軍戦術より高等の科学、これを海軍戦略という」と整理した。

海軍戦略に関してマカロフは戦略と政略を明確に区別する立場をとっている。例えば、「海軍戦略は戦争の諸要素を研究し、戦争に必要な資力の程度および敵に対する行動の最良な方法を定め、またどのような種類の戦時行動が最も正確に目的を達成するかを論定する。その戦争の主眼である敵の力を凌駕するにあることを持って、戦略学の要旨は戦時行動のいかなる種類が敵を破るのに最も適切かつ最も迅速にその目的を達成することができるかを指示することにある」とする一方で、「(政略とは)国家の政略はその目的を達成するには戦争の咲くことができないや否や、あるいはしい行動を持って十分とするやただちに戦端を開くべきかどうかを決断するものである」と論じている。

したがって、戦争を開始することを決断したならば、政略は戦略に切り替えられるという思想をマカロフは持っており、「いったん開戦の場合に至ったならば、戦略はいずれの地点において戦闘を開始するのかを指示し、戦術は最小の損失で敵を撃破しようとすればいかに戦闘を遂行するべきかを決断する。その細目つまり機関運転の方法、弾薬装填の方法、照準の方法などは機関術、砲術、その他の専門の科目を有する」と考えていた。「海軍戦術は海上戦闘に関する科学であり、艦の戦闘力を組織する諸要素にこれを戦時諸種の状況において最も有益に使用する方法を攻究するものである」と述べている。このような艦隊決戦を志向する戦術からは、マハンの影響が読み取れるが、マカロフはマハンの制海権の議論には批判的であった。マカロフの解釈だと、制海権は「撃破された相手があえて自己の港湾の外部に出向せざるを得ない時において、縦横自在に公然とその海面を航行する意味」とされているが、敗北した艦隊でも夜間戦闘によって被害を与えることが可能であるため、制海権の理論には矛盾があるのではないかと考えていた。

著作

軍事学におけるマカロフの研究業績で注目されるのは『海軍戦術の考察(Разсужденія по вопросамъ морской тактики)』である。これは日本語にも翻訳されており、当時の日本海軍の士官の間で注目を集めた。

  • マカロフ『海軍戦術論』春陽堂、1904年(書誌情報、外部リンク、国立国会図書館)