疫病が戦争に与える影響、ペロポネソス戦争におけるアテナイの例

疫病が戦争に与える影響、ペロポネソス戦争におけるアテナイの例

2020年3月15日投稿

はじめに

古代ギリシアで勃発したペロポネソス戦争で、疫病が戦況に重大な影響を及ぼした例があることをご存じでしょうか。

紀元前430年6月頃、エーゲ海を支配する海洋国家アテナイは、領土に侵攻するスパルタ軍を迎え撃つため、籠城の準備を進めていました。その準備の最中に市内で疫病が広まり、多数の市民が命を落としてしまったのです。

当時、歴史家トゥキュディデスは、この疫病が重症化しやすく、致死率が高かったことを詳細に記述しているのですが、感染が拡大したのは単に感染力が強かっただけでなく、当時のアテナイが戦時下にあり、多数の難民が仮設の住居で密集して生活していたためだと指摘しています。

今回はペロポネソス戦争におけるアテナイの事例を取り上げ、疫病が戦争にどのような影響を及ぼすのかを考えてみたいと思います。さらに、生物兵器の軍事的な運用の問題についても言及します。

戦時中のアテナイに衝撃を与えた疫病

最初の感染者が確認されたのは、アテナイ市内ではなく、南西12キロメートルの場所にある港湾都市ペイライエウスでした。アテナイとペイライエウスは陸路で結ばれており、日常的に往来があったので、疫病はアテナイにも広がりました。

トゥキュディデスは歴史家であって、医師ではありません。そのため、彼自身がこの病気の原因についての判断を述べることは避けていますが、典型的な経過について細かく記述しています。

「それまで健康体であったものが、とりわけて何の原因もなく突然、頭部が強熱におそわれ、眼が充血し炎症を起した。口腔内では舌と咽頭がたちまち出血症状を呈し、異様な臭気を帯びた息を吐くようになった。これに続いてくさみを催し、咽頭が痛み声がしわがれた。間もなく苦痛は胸部にひろがり、激しいせきをともなった。症状がさらに下って胃にとどまると吐気を催し、医師がその名を知る限りのありとあらゆる胆汁嘔吐がつづき、激しい苦悶をともなった。ついに患者の多くは、激しい痙攣とともに、空の吐気に苦しめられたが、これらの症状は人によって胆汁嘔吐のあとで退いていく場合と、さらに後まで長引くばあいと、二通りが見られた」(上巻、236頁)

当時、医師たちは懸命に病因究明に努めたようですが、結果として次々と疫病の犠牲になってしまいました。その感染力の強さは基礎疾患の有無に左右されなかったようです。アテナイの市民は完全に恐慌状態に陥りました。神殿に押し寄せて祈りを捧げる者も多数出たようですが、それも無意味だと分かると、誰も神殿に寄り付かなくなったようです(同上、235頁)。

もともとこの疫病の発生源はエチオピアではないかとトゥキュディデスは推定しており、それがナイル川を通じてエジプトに広まり、そこからペルシアの全域へと感染が拡大したと当時の人々の間では考えられていたことを紹介しています(同上、235頁)。この説によるならば、感染経路は船舶と推定されますが、正確なところは分かりません。

致命的な病状、驚異的な感染力

当時、患者の多くは想像を絶する苦痛の中で命を落としていったようです。主な症状は高熱だったようですが、トゥキュディデスの記述によれば、皮膚に触れても、他人にはさほど熱を感じることはなかったようです。しかし、その皮膚の表面は「赤味を帯びた鉛色を呈し」、「こまかい膿疱や腫物が吹きだした」と記録されています(同上、236頁)。患者は病床で耐え難い熱さを訴え、裸になろうとする点に共通の特徴が見られました(同上、236頁)。ほんの薄手の衣服であっても、身に着けると我慢ができず、のどの渇きに苦しめられたようです(同上、236-7頁)。

高熱を発症してから7日から9日で死に至る症例が多かったようですが、それを脱しても水のような下痢で体力を失い、やはり衰弱死していきました(同上、237頁)。辛うじて生き延びた患者も手足の末端から性器に至るまで全身にくまなく後遺症が残り、失明した患者もいたとされています(同上)。また、回復した患者の中には、記憶に障害が残った症例も報告されており、自分の家族を判別できなくなるばかりか、自分自身のことさえも分からない患者がいたようです(同上)。

もちろん、これは当時の患者の症状の進行を一般的に述べているのであって、個別の患者の容体にはかなりの違いがありました。トゥキュディデスは感染したにもかかわらず、回復した患者が少数ながらいたと述べており、彼らは再感染しても致命的な病状にならなかったようです(同上、239頁)。

しかし、当時のアテナイで回復する患者はそれほど多くはありませんでした。その原因を理解する上で注目すべきは、当時のアテナイが敵軍から武力攻撃を受けていたこと、そして多くの市民が郊外から市街へ戦災を逃れて避難していたということです。感染はこの難民の間で爆発的に広がりました。彼らは市内に家がなく、街路や水場で絶命したため、その遺体で市内の衛生状態がさらに悪化する悪循環が起きていたようです(同上、239頁)。

疫病の社会的、政治的、軍事的な影響

神殿ではその場で息を引き取る患者の遺体があふれかえり、あまりにも犠牲者が多いために葬儀を執り行うことができなくなりました(同上、240頁)。死者の尊厳は失われ、他人の火葬に勝手に自分の身内の遺体を投げ入れて帰るという例もあったと記述されており、当時の荒んだ世相が読み取れます。

当時、アテナイの市民の間では、その日限りの享楽的な生活を送る人が増加し、法律を犯したとしても、刑を受けるまでどうせ生きられぬのだから、その前に人生を楽しんで何が悪いのかという思いを誰もが抱くようになっていました(同上、240-1頁)。もちろん、アテナイ軍でも疫病の被害は広がっており、戦わずして多くの犠牲者を出しました(同上、243頁)。そのため、アテナイ軍の戦闘力は低下し、また脱走する者も増加していました(同上)。

疫病はアテナイの国防を揺るがす甚大な被害をもたらし、指導者のペリクレスは国内で大きな政治的反発を抑え込まなければなりませんでした。ペリクレスは多くの市民から責任を問われ、次のような趣旨の発言を演説で述べたとされています。

「今回の疫病が期せずしてわれらを襲ったとはいえ、われらが万全をつくして予期できなかった唯一つの事件ではないか。しかるにこの不測の異変のために、私はかつてそのためしもない程に、諸君の恨みを買っていることはよく承知している。諸君のその態度が正当だと思うなら、逆に諸君が期せずして勝てば、それもみな私の功績にしてくれるつもりなのか。明らかに諸君の態度は間違っている」(同上、250頁)

ペリクレスはこのように毅然とした態度を崩しませんでしたが、それでも不満を募らせる市民が課した罰金刑を受け入れることにしました(同上、252頁)。これは民主政のアテナイで政権の維持に大衆の支持を必要としていたペリクレスの政略であり、これによって一定の支持を取り戻し、再度アテナイ軍の指揮をとることを承認されました(同上)。ペリクレスは危機的状況を逆用し、自らの権力を固めることに成功したのですが、間もなく自らも感染し、命を落としています。

客観的に見れば、アテナイは窮地に立たされたように思われますが、スパルタはこの戦機を活用することはできませんでした。なぜなら、スパルタにもその感染を防ぐ手立てがなかったためです。

トゥキュディデスの記述では、アテナイの疫病を知ったスパルタ軍が感染を恐れ、攻撃の手を緩めた可能性について示唆されています。ただ、アテナイを攻撃しないとしても、その地方の領土には長期にわたって駐留したようであり、当時のスパルタ軍の指揮官がどのような状況判断を下していたのかははっきりしません。しかし、敵国に侵攻した野戦軍は通常、限定的な衛生支援しか利用できないため、指揮官が敵地で軍内部に感染症が広がることを懸念したことは十分にあり得ることです。

このような結果として、アテナイ軍は疫病で多くの兵を失いながらも、首都を維持することができました。

むすびにかえて

トゥキュディデスの戦史は、疫病と戦争の関係を考える上で興味深い示唆を与えてくれます。つまり、感染症のリスクは、一般に敵味方の別を問わず、軍事作戦の継続そのものを難しくするということです。いったん感染地域が発生すれば、そこで組織的な戦闘を実施することは不可能であり、戦地でそれが発生すれば、感染が収束するまで部隊としての行動は停止せざるを得ません。

一般に人体、動物、植物の内部で増殖して害を与える微生物、あるいはそれに由来する感染性の物質を利用した兵器は生物兵器(biological weapon)と呼ばれていますが、軍事史においてこれが使用された例が極めて少ないのは、その効果をコントロールすることが非常に難しいためでしょう。

1925年にジュネーヴ議定書によって生物兵器が使用禁止にされていることは、単に人道上の問題があるだけではありません。生物兵器を大規模に使用した戦争は、軍事的に許容可能な水準をはるかに超える損害を出す懸念があるためです。

武内和人(Twitterアカウントnoteアカウント