メニール・デュラン

メニール・デュラン

フランソワ・ジャン・デ・メニール・デュラン(François-Jean de Mesnil-Durand, 1729年11月19日 - 1799年7月31日)はフランスの陸軍軍人である。18世紀の後半にフランスで起きた陣形をめぐる論争でギベールと論争したことで知られている。

経歴・業績

ノルマンディーのリジュー出身。王室に使える軍人の家庭に生まれたことから、彼も1744年頃に陸軍に入隊し、軍人としての道を歩んだ。1747年にはモーリス・ド・サックスの下で従軍し、経験を積んだが、1753年には陸軍を退いて故郷に戻り、そこで軍事学の研究に専念するようになった。縦隊の高い機動を活かすべきだと主張していた軍人フォラールの影響を受けており、1755年に発表した主著『戦術におけるフランスの陣形(Projet d'un ordre françois en tactique)』では戦場において縦深を持った隊形が有利であることを主張している。1756年に七年戦争が勃発した際には、フランス軍の元帥ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエの副官としてハステンベックの戦闘に参加した。戦闘は勝利に終わったが、宮廷の内部における権力闘争の影響でル・テリエは戦闘後に更迭された。そのため、メニール・デュランも解任され、再度故郷に戻らざるを得なかった。

七年戦争はフランス陸軍の問題を浮き彫りにする出来事だった。そのため、改革の必要を主張する人々が現れるようになり、特に従来の戦術を見直す必要性が議論されるようになった。フランスの陸軍軍人ギベールは1772年に著作を発表し、プロイセン国王フリードリヒ二世が採用した縦深が乏しい横隊戦術を高く評価して注目を集めていた。メニール・デュランはこれを批判するために1774年に『戦術の断章(Fragments de tactique)』を書き、論争を仕掛けた。1778年に勃発したアメリカ独立戦争ではフランス軍の元帥ヴィクトル・フランソワの後ろ盾を得ることに成功し、1779年には名誉職であるものの王立擲弾兵連隊の連隊長に就任しているが、その間もギベールとの論争は続いていた。1789年に発生したフランス革命では新政権を敵視したことから、1795年にイギリスへ逃れた。そこで回顧録を執筆し、文学や科学の分野にも挑戦したが、成功を収めることはできなかった。

軍事学の歴史においてメニール・デュランは、フォラールの研究をさらに発展させる役割を担ったと言える。ロンドンにて死去。

  • Mesnil-Durand. 1755. Projet d'un ordre françois en tactique, ou la phalange coupée et doublée soutenue par le mélange des armes. Paris: d'Antoine Boudet.
  • Mesnil-Durand. 1774. Fragments de tactique, ou six mémoires... précédé d'un Discours Préliminaire sur la Tactique et sur les Systèmes, Paris: libr. Ch.-Ant. Jombert.