許洞

許洞

許洞(976年? - 1015年?)は北宋の官吏であり、中国の軍事学史においては『虎鈴経』(1004)の著者として知られている。

字は淵夫、呉郡(現在の江蘇省)の出身。官僚の家に生まれ、幼い頃から武芸に親しんだが、学問にも励んでおり、特に歴史書である『春秋左氏伝』に精通していた。1000年に実施された試験に合格し、雄武軍(現在の甘粛省天水)の推官(知事を補佐する幕職官)に就いたが、自尊心が強すぎるあまり職場で問題を起こしたために退職した。帰郷してから自堕落な生活を送っていたが、そのような状況でも軍事学に対する興味が尽きることはなく、『孫子』と『太白陰経』を中心に研究を進めた。その研究成果をまとめて『虎鈴経』(1004)を書き上げると、翌1005年に就職口を求めて首都の開封へ赴き、『虎鈴経』を朝廷に献上した。しかし、当時、北宋の皇帝だった真宗は自国の戦備に自信が持てないにもかかわらず北方の遼に国土を脅かされたために、定期的な貢納金と引き換えに国境保全を約した澶淵の盟(1004)を結んだばかりだった。結局、朝廷で就職する試みは失敗し、均州(現在の湖北省)の参軍(知事を補佐する曹官)に任命された。1011年、烏江(現在の安徽省鞍山)の主簿(知事の下に置かれる事務官)に任じられ、死去するまでその地位にあったと見られる。

許洞の軍事思想は『孫子』の優勝劣敗の考え方に影響を受けているが、それを独自の視点で捉え直し、新たな軍事思想の展開を試みている。例えば、戦争を遂行するために許洞は合計で9個の一般原則を掲げた。まず「三和」が必要であると論じられている。三和とは、国家が平和であること、軍隊が団結していること、そして戦列が整っていることの三つを意味する。次に「三有余」が重要であり、それは軍事力が十分に強大であること、糧食が豊富に供給されていること、そして戦争の大義が明白であることを指している。最後に「三必行」があり、これは敵の謀略に欺かれないこと、褒賞をしっかりと与えること、そして過ちには刑罰を処することである。

著作『虎鈴経』は日本語に翻訳されていないが、下記の外部リンクからオンライン版を読むことが可能である。