多くの人が知らない軍事地理学の歴史を振り返る

多くの人が知らない軍事地理学の歴史を振り返る

2019年10月3日投稿

はじめに

そもそも軍事地理学という学問を認知している人の数が少ないため、軍事地理学の歴史を知りたい人も限られているかもしれません。

しかし、軍事地理学という学問の存在を知らせるためにも、研究史を要約し、紹介することには意義があると思います。というのも、研究者でも軍事地理学の歴史に関する資料を見つけることは現時点でも容易ではないためです。

今回は軍事地理学の歴史に関する主要な研究成果を整理し、軍事地理学に対する認識を深め、より多くの人に関心を持ってもらえればと思いました。

以下の記述で主に依拠しているのはガーヴァーの解説です。彼と同じく今回の記事でもヨーロッパで近代地理学が確立された19世紀以降の展開を中心に扱っています(Garver 2001: 9861-9863)。

地理学者ラヴァレの著作『自然地理学と軍事史』に掲載されたバルカン半島西部の地図。表題では自然地理学とあるが、人文地理学、特に政治地理学的な考察も含まれており、この主題図では各勢力の領域が色分けされている(Lavallée 1836: 577)

最初期における軍事地理学の展開

軍事地理学における初期の業績に共通して見られる特徴は、その研究が依拠すべき理論的、概念的な基礎が確立されていないことです。そのため、研究は地誌、つまり地域特性を記述するという手法で行われており、その研究の範囲も地域ごとに区別、限定されていました。

最も初期の業績として挙げられるのは、フランスの地理学者テオフィル・ラヴァレ(Théophile Lavallée)の『自然地理学と軍事史(Géographie Physique, Historique et Militaire)』(1836)です。この著作の目的は軍事史の研究成果を近代的な地理的知識と結び付けることにあり、その取り組みは最初期の研究として一定の成果を出していますが、まだ軍事地理学としての理論体系や分析概念を欠いているという問題点も指摘できます。

ラヴァレの研究は画期的なものですが、その後も軍事地理学の研究の手法は地誌が中心であり、独立した学問体系と見なすことが難しい段階にあったと言えます。プロイセンの陸軍軍人アルブレヒト・フォン・ローン(Albrecht Theodor Emil Graf von Roon)が著した『ヨーロッパの軍事地誌(Militärische Länderbeschreibung von Europa)』(1837)はラヴァレよりも軍事専門的観点からヨーロッパの地域特性を記述した地誌的研究ですが、その内容はやはり軍事行動に影響を及ぼす地形を中心とした地誌に重点が置かれています。

イギリスでは陸軍軍人チャールズ・マクスウェル(Charles R. Maxwell)の『ヨーロッパの軍事地理学の概略(An Epitome of the Military Geography of Europe)』(1850)が先駆けです。これはやはり地誌的な研究なのですが、その内容はかなり初歩的なものに留めています。ただし、この著作は軍事地理学の入門書として書かれたものであり、ラヴァレやローンの専門書と単純に比較した上で評価を下すことは適当ではないでしょう。

マッキンダーの論文「地理学から見た歴史の回転軸」で掲載された世界地図。この地図を通じてマッキンダーは海洋勢力が到達できないユーラシア大陸の内陸部を一つの地域として把握し、これを枢軸地域(pivot area)と名付け、そこを大陸勢力が支配する戦略的優位について説明した。その範囲に関しては後にマッキンダー自身が修正することになったが、こうした世界全体を一つの空間として把握する地政学の視点は後の軍事地理学の研究に大きな影響を残した(Mackinder 1904)

発展期を迎えた軍事地理学の研究

19世紀後半に入ると、軍事地理学は発展期を迎えました。地域の特性を記述する地誌が依然として主流を占めていましたが、その内容がだんだんと専門的、実用的なものに洗練されていきました(Ruhierre 1875; Bollinger 1884; Magure 1891など)。また、一部の研究者は軍事学で使われていた概念や理論を軍事地理学に敷衍することを試みました。

戦略的観点を取り入れた軍事地理学の研究として、アメリカの海軍軍人アルフレッド・セイヤー・マハンの業績が挙げられます(Mahan 1890)。彼はアントワーヌ・アンリ・ジョミニが陸軍の作戦行動を分析するために作り上げた理論を海軍の分野に持ち込み、これを用いて世界各地の海軍基地の重要性を評価できることを示しました。またイギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーは鉄道の普及によって陸上交通の効率が向上し、ユーラシア大陸の中央部が持つ戦略的な重要性も増大すると考察しました(Mackinder 1904)。これらの議論はその後の地政学(geopolitics)の研究に繋がるものとして現在でも評価されています。

戦術的観点に依拠した軍事地理学の研究としては、アメリカの地理学者ダグラス・ジョンソン(Douglas Johnson)の著作『世界大戦の戦場(Battlefields of the World War)』(1921)が重要な業績があります。これは陸軍の作戦に影響を及ぼした地形、土壌などの影響を調査した成果であり、例えば戦場における土壌の性質によって砲兵の射撃効果がもたらす殺傷力に大きな違いが生じることなど、実際の作戦計画の立案や戦闘指導に寄与する内容が多く盛り込まれています。

冷戦期にソ連の中核地域・工業地帯の範囲を示した地図。ソ連の首都モスクワを中心に同心円が描かれているが、このような円は航空機の航続距離の限界や戦域ミサイルの射程などを示す上で便利であるため、第一次・第二次世界大戦以降の航空戦略、核戦略の研究で広く使われるようになった。(Collins 1998: 342)

停滞から抜け出した現在の軍事地理学

第二次世界大戦が終わってからも、しばらくは軍事地理学の研究は継続的に実施されました。しかし、アメリカでは戦時中の研究者の動員が解除されたことに伴って次第に発表される論文の数は減少し始め、1960年代の後半からは急激に研究が衰退するという時期を迎えました。

このような潮流を食い止める上で、アメリカ陸軍士官学校では1978年に軍事地理学という講義を新たに開講し、また過去に行われた研究文献を収集、整理する作業を行っています(Garver 1981)。

また、マッキンダーやマハンに代表される地政学の意義を改めて評価し、冷戦期における国家安全保障の研究に活用しようとするグレイの『核時代における地政学(The Geopolitics of the Nuclear Era)』(1977)も出されています。1983年に出版されたミラーとスリヴァンの共著『戦争の地理学(The Geography of Warfare)』(1983)は歴史上の戦略と戦術を研究する上で地理的知識を応用することの重要性を改めて再確認させるものとして評価されています(O'Sullivan 1991)。

また1998年に軍事地理学の教科書が執筆されたことも、軍事地理学の再興に貢献しました(Collin 1998)。この教科書は軍事地理学の内容を自然地理学に関連するものと、人文地理学に関連するものに大別した上で、地政学的な議論や地域分析の手法を総合的に学ぶことができるように工夫されており、これまでの研究成果を巧みに要約、紹介しています。

陸軍や海軍だけでなく、空軍の作戦や宇宙空間をも記述の対象にすることによって、現代の軍事地理学における研究の広がりを示す内容になっています。

むすびにかえて

軍事学では古くから地理的知識が重要だと語られてきましたが、近代地理学の成果が軍事的領域に応用されるようになり、それが独自の学問体系として発達してきたのは19世紀以降のことです。また、その内容も最初から系統的に発展してきたわけではなく、当初は地誌が中心だったこと、さらに第二次世界大戦終結後に停滞した時期があったことなどがお分かり頂けたのではないかと思います。

今後の展望ですが、軍事地理学にはまだ多くの研究課題が残されており、将来さらに発展する余地を残しています。特に歴史上の戦闘や戦役を現在の地理的知識に基づいて再検討する作業には大きな可能性があります。さらにガーヴァー自身が述べているところですが、情報技術の発達とその普及が地域にどのような影響を及ぼすのか、地理情報システム(GIS)の活用によって地理的な軍事情報の分析をどのように改善できるのかといった実践的な課題もあります。

以前、ミサイルの配備計画に関連して防衛省が住民向けに作成した地図資料に重大な間違いがあったことが政治上の問題になったこともありました。我が国の防衛を考える上でも地理的知識の重要性を改めて考えることが必要なのではないでしょうか。

武内和人(Twitterアカウントnoteアカウント


関連記事


参考文献