キューバ危機

キューバ危機

キューバ危機(Cuba Crisis)は1962年にキューバにソ連の弾道ミサイル、爆撃機が搬入されていることが発覚したことで発生したアメリカとソ連の危機である。

概要

1959年にキューバで革命が起きた当初、アメリカは新政府を承認し、外交関係の強化に前向きだった。しかし、新政府の閣僚が穏健派から過激派に入れ替わるにつれ、アメリカはこれを敵視するようになり、1960年には中央情報局を通じて亡命キューバ人を集めて訓練を施し、1961年にキューバの政府を打倒する工作に送り込んだ。キューバはこの工作に対抗し、ソ連に接近する外交をとった。報復としてアメリカは米州機構からキューバを除名した。

中米で孤立を深めたキューバはソ連に経済的、軍事的に依存した。1962年からソ連は本格的にキューバに対して軍事援助を与えるようになり、それは主に海路を通じて搬入されていた。1962年10月14日、アメリカの偵察機がキューバでソ連製の弾道ミサイルと爆撃機を発見した。これらの運搬手段はアメリカの本土に対する核攻撃に使用できるため、重大な脅威だと評価された。

直ちに対策が検討され、即時の軍事行動も選択肢として挙げられたが、10月20日に海上封鎖を実施することが決定され、必要があれば攻撃が可能なように兵力の配備が進められた。米ソ開戦になると核戦争に拡大する恐れがあったため、世界各地のアメリカ軍は警戒態勢に置かれ、カリブ海には180席の艦艇が展開し、核兵器を搭載した爆撃機B-52が24時間空中待機の体制についた。

10月21日、キューバの海上封鎖がソ連を刺激しないように、「隔離」と呼称することを決め、22日には放送で全世界にアメリカの立場を説明した。23日に米州機構の会議が開催されてアメリカの立場に追随し、ヨーロッパでソ連軍が行動を起こした場合に備えてイギリス、西ドイツ、フランスからの支持も取り付けた。事態の進展を受けてソ連も戦時体制に移行したが、10月25日にソ連船12隻が阻止線の手前で引き返した。しかし、その後もキューバにおけるミサイル基地の建設は推進され、米ソは平和的解決のための交渉を進めた。

交渉は順調に合意に達するかと思われたが、10月27日にソ連はトルコに配備していたアメリカのミサイル撤去を要求してきた。同日、地対空ミサイルによってアメリカの航空機が撃墜される事件が起こり、米ソ関係は急激に悪化した。アメリカ政府は直ちにソ連大使を呼び寄せて明日にもキューバ攻撃に踏み切る可能性があるため、直ちにキューバからのミサイル撤去の要求について回答するように求めた。

ソ連は10月28日にラジオ放送でキューバからミサイルを撤去すると回答した。この約束によって危機は去り、ソ連はキューバから装備をソ連船で本国へ輸送し始めた。アメリカは11月20日にキューバに対する海上封鎖を解除し21日からフロリダに集められた兵力も復帰した。この日にソ連も戦時体制が解除された。

キューバ危機に関しては近年さまざまな研究が進んでおり、米ソ関係を中心に検討する研究だけでなく、キューバの視点から見たキューバ危機の研究も注目されている。

参考文献

  • Roberts, P., ed. 2012. Cuban Missile Crisis: The Essential Reference Guide. ABC-CLIO.