感染のリスクが高い船舶輸送は兵士にとって命がけだった:パンデミックにおける米軍の大西洋横断

感染のリスクが高い船舶輸送は兵士にとって命がけだった:パンデミックでの米軍の大西洋横断

2020年9月5日

第一次世界大戦はパンデミックの最中に遂行された史上最初の近代戦争だったと言えます。1918年に米国でインフルエンザ(通称スペインかぜ)が発生した当時、米軍ではヨーロッパの西部戦線に向けて遠征部隊を送り出す船舶輸送を開始したばかりでした。さまざまな対策がとられましたが、船舶輸送の途中で発症する兵士が相次ぎ、大きな人的被害が出ています。

米国政府はこの問題を把握していました。しかし、ドイツが東部戦線で戦っていたソ連と講和を締結し、その兵力を西部戦線へと移動させている情報を掴んでいたため、西部戦線で英仏両軍に速やかに増援する戦略的な必要があり、部隊の船舶輸送を続行しました。

今回の記事では歴史学者クロスビーの研究成果『史上最悪のインフルエンザ』に依拠しながら、感染対策と戦争遂行の両立が求められる中で、多くの兵士が命がけで大西洋を横断していたことを示す記録を紹介したいと思います。

リヴァイアサン号の出港

1918年9月29日、ニュージャージー州のホーボーケン港から出発した貨客船リヴァイアサン号は米軍の兵員1万2000名を輸送する任務を遂行するため、単独で大西洋を渡り、フランスのブレスト港に入る予定でした。この船に搭乗する10個以上の部隊の一つだった第57連隊はニュージャージー州のメリット駐屯地からハドソン川を行き来するフェリーの貨物室に乗せられて移動してきましたが、徒歩行進の途中で次々と落語兵が出るという異常な事態が起きていました(クロスビー、160-1頁)。

この時期、米国ではインフルエンザの第二波が到来していたため、感染が疑われる部隊をすべて隔離することも検討されるべきでしたが、輸送計画の関係でリヴァイアサン号の出港の予定を遅らせることは不可能だったため、連隊の移動は続行されました。ただし、埠頭ではリヴァイアサン号に搭乗する前の身体検査が徹底され、異常のある兵士を発見しようとしています(同上、161頁)。しかし、症状がまだ出ていない感染者を検査で特定することは難しく、感染者が船室に入ることは避けられませんでした。

リヴァイアサン号の定員は6800名でしたが、米軍は収容能力を強化する改造を行った上で「集中的乗船」を実施していました(同上、161-2頁)。そのため、船内は設計の想定をはるかに超える過密な状態であり、船内感染が起こりやすい状況だったと言えます。リヴァイアサン号は9月29日に出港し、翌30日に外洋に出ましたが、この時点で医務室の病床はすべてインフルエンザ、あるいは肺炎と診断された患者で埋まってしまいました(同上、162頁)。医務室に収容できない患者は通常の船室で横になるしかありませんでした。この日に海軍の水兵一名が亡くなっていますが、それは始まりにすぎませんでした(同上)。

船内感染の爆発的な広がり

リヴァイアサン号には幸いにも200名の看護婦が同乗していましたが、狭い船内では患者を隔離できる適切な場所が見つからないという問題がありました(同上、161頁)。医務室から溢れた患者を隔離するため、最初は客室にあった200名分の寝台が確保されました(同上)。しかし、この新たな病床もあっという間に埋まってしまい、その日のうちに別の客室の415名分の寝台も病床として指定され、部屋を追い出された兵士は移動を余儀なくされました(同上)。自分の寝台がなくなった兵士が集まってきたのは船内でも特に換気が悪い船倉であり、居住区として不適と判定されたはずの場所でした(同上、162-3頁)。

このような構造の寝台では、看護婦が最上段まで登ることもできず、また患者自身も衰弱すると自力で降りてくることが不可能な構造だったようです(同上、163頁)。これは正確な数字ではありませんが、9月30日の時点での患者は700名ほどだったと推定されており、その後も増加していきました(同上、163頁)。その感染者の中には軍医や看護婦も含まれており、対応に当たるための人的資源は絶対的に不足していました。

10月1日には乗船していた陸軍軍医団14名の団長だったデッカー大佐がインフルエンザで倒れることになり、他にも2名の軍医が感染してしまったため、残りの11名でこの事態に対処しなければなりませんでした(同上、164頁)。200名の看護婦のうち30名もインフルエンザに感染しています(同上)。しかも、リヴァイアサン号は大西洋で大時化に見舞われ、患者は10月4日から激しい船酔いにも苦しめられるようになりました(同上、163頁)。

「まさに地獄が思いのままにはびこっている」

リヴァイアサン号の衛生環境は短期間で急激に悪化していきました。当時流行していたインフルエンザは重い肺炎の症状が表れるだけでなく、鼻出血の症状を示すことがよくありました。さらに患者は大西洋の荒波で船酔いに苦しめられ、嘔吐を繰り返し、排泄を自力で行う体力もなくなりました。米軍の報告書では夜間の船内の様子が次のように記述されています(同上、168頁)。

「あの光景は、実際にそれを見た人間でなければ想像もできないだろう。鼻出血を起こした大勢の患者の鼻からしたたり落ちた血でできた血だまりが部屋中そこかしこに散らばっており、ベッドとベッドの間も狭く、病人の世話をする者が患者の吐瀉物や排泄物を踏まずに通り抜けることもままならなかった。甲板は濡れて滑りやすく、そこでは恐怖にかられた者たちのうめき声や叫びと治療を求める者たちの声があいまって、まさに地獄が思いのままにはびこっているといった様子だった」(同上)

10月2日、あまりにも多くの患者が排泄物、血液、吐瀉物で汚染された隔離部屋に押し込められていたため、これを清掃しないわけにはいかなくなりました。陸軍は事態を深刻に受け止め、この部屋の清掃を歩兵部隊に実施させることを命令しましたが、部隊は命令を拒絶しました(同上)。これは重大な行為であり、軍隊の規律を乱す重大な事件でした。最終的に、この清掃の問題を解決したのは海軍の水兵であり、彼らは感染の拡大を食い止める上で重要な働きをしたと言えます(同上、168-9頁)。この日には陸軍の兵士から最初の死者が出ています。陸軍の部隊で命令拒否が起きたのは、この日が最初で最後でした(同上、169頁)。

一刻も早く大西洋を渡り、ブレスト港に入りたい状況でしたが、リヴァイアサン号のフェルプス船長は、ドイツ海軍の潜水艦が近くの海域で哨戒しているとの情報に接し、予定されていた航路をやや北寄りに修正することを余儀なくされました(同上)。これで予定よりも到着が遅れることは避けられなくなりました。軍医と看護婦の懸命な努力にもかかわらず、ブレスト港に到着する10月7日まで船内では毎日死者が出ていました。1日に発生する死者数は増加し続けていました。1日で45名の死者が出る日もあり、遺体処理係の仕事が追いつかなくなりました(同上)。防腐しきれなかった遺体が船内で腐敗の兆候を見せていたことも当時の記録に残されています(同上)。

むすびにかえて

海洋国家の戦略は地上部隊を海上輸送によって世界各地に機動展開することに大きく依存しています。当時、米国は西部戦線でドイツ軍が攻勢をとり、英軍、フランス軍を圧倒するリスクが高いと判断したからこそ、感染のリスクを冒してでも将兵に命がけで海を渡るように命じたと考えられます。しかし、船舶という閉鎖的な環境で感染の危険に晒された将兵が味わった恐怖は、戦場で弾雨に晒される恐怖に勝るとも劣らないものだったに違いありません。

歴史学者が調査しても、リヴァイアサン号の死者数ははっきりしないようです。原因は当時の軍医の業務があまりにも過密であったため、正確な記録を残す余力がなかったためだと考えられています。記録によって犠牲者の数にばらつきがあり、現在でも完全には整理されていません。

リヴァイアサン号の航海日誌によれば、航海の途中で発生した死者は合計で70名とされています(同上、170頁)。しかし、部隊の戦争日誌で記録された死者は76名でした(同上)。乗組員が戦後に編纂した文献では、陸軍の兵士の死者が76名、海軍の水兵の死者が3名という記述がありますが、別の記述では兵士の死者は96名、水兵の死者は3名ともあります(同上)。リヴァイアサン号が10月7日にブレスト港に到着した後も、自力で下船できなかった兵士が船内で14名が死亡していることも関係しているのかもしれません(同上)。

船舶輸送が終わってからも、第57連隊の苦難は続きました。下船した連隊の将兵は極度に消耗していましたが、彼らはそこからポンタネザン駐屯地までの6.4キロメートルを徒歩で行進しなければなりませんでした(同上、171頁)。現地はちょうど嵐に見舞われていた時期であり、悪天候の中での行進でした。連隊は間もなくしてインフルエンザや肺炎で約200名の兵士を失っています(同上、172頁)。

武内和人(Twitterアカウント