なぜアメリカとロシアが核兵器の軍拡競争を激化させているのか

なぜアメリカとロシアが核兵器の軍拡競争を激化させているのか

2020年4月18日投稿

はじめに

現代の安全保障環境を語る上で核兵器の問題を避けて通ることはできません。冷戦時代が終わった直後は、アメリカの軍事的優位が確立されたため、核兵器の重要性が一時的に低下しました。しかし、核兵器が世界に拡散していく流れが大きく変わることはありませんでした。

2014年にウクライナで武力紛争を引き起こしたロシアが、アメリカと敵対する中で核兵器の戦略的な意義を見直したことも注目されます。アメリカとロシアはいずれも核兵器の研究開発への投資を増加させており、軍拡競争に復帰しました。

決定的だったのは、冷戦期に合意された重要な軍備管理条約の一つが2019年に失効したことです。今回の記事では、それが世界各国で戦略的安定性の低下を引き起こすリスクがあることを説明してみたいと思います。

再び核保有国の間で軍拡競争が始まろうとしている

すでに核保有国の間で軍拡競争が進む兆しがあり、その流れが加速することが懸念されている状況です。特に2019年8月2日にアメリカとロシアとの間で維持されてきた中距離核戦力(INF)全廃条約が失効したことは、将来の軍事情勢に重要な影響を及ぼす恐れがあります。

INF全廃条約とは、射程が500kmから5500kmの弾道ミサイルおよび巡航ミサイルを廃止するための軍備管理条約であり、その履行を確実にするための検証に関する手続きについても定めていました。1980年代に起きた新冷戦での軍事的緊張を緩和する意味で重要な役割を果たした条約です。

しかし、2014年にロシアが地上配備型の巡航ミサイル「9M729」の研究開発を進めていることをアメリカが条約違反として批判してり、ロシアがそれを受け入れなかったことから、条約の存続が危ぶまれていました。

結果的に両国の立場の隔たりが埋まることはなく、2019年にアメリカとロシアはそれぞれINF全廃条約から脱退するに至りました。この措置によって、近い将来にアメリカ軍とロシア軍がINFの配備を世界各地で進め、軍拡競争が加速する事態が現実のものになりつつあります。

すでに駆け引きは始まっており、9月25日にロシア政府はドイツ政府に働きかけ、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国を含む複数の国々に対してINFを配備する措置を凍結することを提案しました。またアメリカ軍が先にINFを配備しなければ、ロシア軍もINFを配備することはないと声明を出すなど、ロシア軍だけがINFを運用できる優位を少しでも長く維持しようとしていることが伺えます。

アメリカ軍の方としては、2019年8月にINFの発射実験を開始しており、配備に向けて準備を進めています。このまま事態が進むのであれば、2020年から2021以降に米露間でINFの軍拡競争が本格化する可能性があります。イギリスのシンクタンク国際戦略研究所(IISS)が発行する2020年版の『ミリタリー・バランス』によれば、ロシアがINFに該当する地上発射型の巡航ミサイルの配備がヨーロッパだけでなく、極東でも進める意図があると述べられているため、軍拡競争は極東の軍事情勢に影響を及ぼす恐れがあります(IISS 2020: 168)。

ただし、IISSの分析によれば、9M729は2019年の時点でエランスキー(Elansky)、モズドク(Mozdok)、シューヤ(Shuya)で配備されており、カプースチン・ヤール(Kapustin Yar)では部隊が訓練の途中とされています。この情報をそのまま受け入れるならば、ロシア軍はINFをヨーロッパ方面の脅威に対する備えとして用いており、極東への配備はもう少し先のことになると考えることもできます(Ibid.)。

INFの軍拡競争で世界各地の戦略的安定性低下が懸念される

INFの軍拡競争が始まれば、ヨーロッパの軍事情勢に大きな影響が生じることは避けられません。NATO加盟国はいずれもロシアを脅威として認識しているため、ロシアが提案した凍結提案を受け入れておらず、アメリカとの関係強化を重視する姿勢を示しています。ただ、例えばフランスは米露の軍拡競争を防止する必要を認め、INF全廃条約に代わる新たな条約の締結を呼びかけるなど、苦しい立場に置かれています。

INFの軍拡競争で苦しい立場に立たされるのは、恐らくヨーロッパの同盟国に限られないでしょう。アメリカ軍が日本にINFを配備する可能性も考えられるためです。まだ表立って日本政府はこの問題について立場を表明してはいません。ただ、ロシアは警戒を強めており、2019年12月の日露外相会談でロシア政府は日本政府に対してINFを日本に配備した場合、ロシア中部のウラル地域にまで脅威が及ぶ可能性があるという懸念を表明しました。

米露の軍拡競争に日本をはじめ東アジア諸国が巻き込まれるリスクについては、防衛研究所が2020年4月に発表した『東アジア戦略概観 2020』でも分析されています。そこではINFは米露関係だけでなく、日露関係も含めた「北東アジアの国際関係を本質的に変えてしまう可能性をも秘めており、その意味において東アジアの戦略環境に大きな影響を与えるおそれがある」という認識が示されています(防衛研究所、144頁)。

日本の研究者が特に注意を払っているのは、ロシア軍が近い将来に北方領土を含めた極東地域にINFを配備する可能性です(147頁)。先に述べた『東アジア戦略概観』では、ロシアの軍事専門家ワシリー・カーシンの見解が紹介されており、そこではアメリカ軍が近い将来にグアム、日本にINFを配備し、さらに中国がすでに多数のINF相当のミサイルを保有していることを踏まえ、ロシア軍も極東のチュコト半島に配備する見通しであることが述べられています(141頁)。

チュコト半島はユーラシア大陸の最東端であり、ベーリング海峡を挟んだ対岸にはアメリカ領のアラスカ州が位置しています。このように極東方面へのロシア軍の核兵器配備が推進されるならば、軍拡競争による戦略的安定性の低下はヨーロッパだけでなく、極東でも進むことを日本として覚悟しておく必要があるでしょう。(最近のベーリング海峡をめぐる軍事情勢に関しては、過去のブログ記事でも取り上げています)

むすびにかえて

新型コロナウイルス感染症の影響を受けて、世界経済に壊滅的な影響が生じています。2019年に始まった米露間の軍拡競争が今後どのような展開を見せるのかはっきりと見通せません。もしかすれば、米露両国がいったんINF配備の手を緩める可能性もあります。しかし、INF全廃条約が失効したままであり、新たな軍備管理の努力がなければ、いずれINFの配備に向けた動きが再開するでしょう。

冷戦が終結してから30年以上の歳月が流れたにもかかわらず、改めて核兵器の問題が浮上してきた背景については、米露関係以外の要因も関係しています。そもそもINF条約を締結していなかったために、すでに多数のINF相当のミサイルを保有している中国や、新たな核開発とミサイル開発を進める北朝鮮の問題など、東アジア地域の軍事情勢も米露が核兵器の近代化に乗り出したことと無関係ではないと考えられます。

武内和人(Twitterアカウントnoteアカウント