フラー

フラー

ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー(John Frederick Charles Fuller, 1878年9月1日 - 1966年2月10日)は、イギリスの陸軍軍人、軍事評論家。機甲戦の研究で知られる。

経歴

1878年、イングランド南部のウェストサセックスにある小都市チチェスターで聖職者の家に生まれる。一時期は家族とスイスで暮らしたこともあるが、11歳の時にイングランドに戻った。マルヴァン・カレッジで学ぶが、やがて軍人になることを志し、1897年にサンドハーストの王立士官学校に入校する。1898年に陸軍少尉になると、オックスフォード・アンド・バッキンガムシャー軽歩兵連隊の第一大隊に配属された。1899年にボーア戦争に従軍するため南アフリカへ派遣されたが、健康上の理由で戦闘に参加することはなく、1902年まで情報将校として勤務した。1904年にインドに派遣されたが、この時は腸チフスに感染し、本国に送還された。病気が快復してからもインドに戻されることはなく、イングランドの第二サウス・ミドルサセックス・ボランティア連隊に配属された。

第一次世界大戦が勃発してから1年が経った1915年、フラーは少佐に昇進し、西部戦線で戦う第七軍団司令部に幕僚として配属された。1916年に「機関銃部隊」の名称で新設された戦車部隊の幕僚長に就任し、機甲戦の調査研究に本格的に取り組んだ。その研究成果により、1917年のカンブレーの戦いにおいて戦車部隊による攻勢作戦を計画した。1919年には完全に機械化された部隊による攻勢作戦を立案したが、これが実行される前に戦争は終わった。戦後、陸軍省で陸軍の機械化を推進する事業に携わり、1922年には幕僚大学校の教官として勤務した。1926年に帝国参謀本部の顧問に、1927年に実験機械化旅団の旅団長に就き、自らの構想を具体化することができるかと思われたが、保守的な考え方を持つ軍人から反発を受けた。結局、フラーは旅団長の職を退き、ムドムンド・アイアンサイドが率いる第二師団の司令部で幕僚として勤務した。1930年に少将に昇進したが、3年後の1933年に現役を退いた。

その後、ファシズムを信奉する政治家オズワルド・モズレーが率いるイギリス・ファシスト同盟に加盟し、選挙にも出馬したが落選した。また、ドイツが支援する民間の政治団体、北欧連盟にも参加するなど、ナチ党に関連する政治運動に関与した。1935年にナチ党が政権を掌握した後で初めて実施された演習にフラーは外国から唯一招待された。また1939年4月20日にアドルフ・ヒトラーの50歳の誕生日記念式典にも招待された。第二次世界大戦が勃発し、モズレーが投獄されたため、フラーはナチ党に関する政治運動から距離を置き、軍事史に関する研究と著述に専念するようになった。1964年に死去。

思想

フラーは機甲戦の研究で先駆的な役割を果たした。第一次世界大戦が勃発した当時、開発されたばかりの戦車を陸軍の編制、運用の中でどのように位置付けるべきかについては、不明な点が多く残されていた。フラーはそのような状況で戦車の技術的特性を一から分析し、戦車を集中運用することによって、西部戦線の手詰まりを打破することを着想した。まず、敵部隊を物理的に破壊するのではなく、心理的に動揺させることを第一に考え、これを麻痺状態と呼んだ。この麻痺状態を作り出すために、フラーは戦車を単に前線の突破に使うのではなく、さらに縦深にわたって前進させて敵の背後連絡線を断つことを主張した。これによって、司令部と第一線部隊との連絡を遮断すれば、突破した地域だけでなく、それ以外の地域に配備された部隊の組織的抵抗を不可能にすることができる。機甲戦に関するフラーの考え方については(フラーの機甲戦思想と戦車の戦略的重要性)を参照されたい。

主著

フラーが最後に書き残した主著『制限戦争指導論』(The Conduct of War 1789-1961)は、近代の軍事史を題材としながら、限定戦争を指導するための戦略原則を確立することを意図したものである。クラウゼヴィッツの研究で示された戦争と政治の関係に関する思想を積極的に採用し、それに基づいて核戦争の時代における戦争の様相を考察し、どのような戦略を展開するべきかを議論している。また、フラーは戦いの原則に関する研究業績(学説紹介 戦いの原則(principles of war)はどのように作られたのか―フラーの学説を中心に―)でも知られているが、この方面の著作はまだ翻訳されていない。