蒋方震

蒋方震

蒋方震(Jiang Bai li, 1882年? - 1938年11月4日)は中華民国の軍人であり、中国の軍事学を近代化させることに貢献した研究者としても評価されている。著作に『国防論』などがあり、中国では対日戦略に関する研究成果で知られている。

経歴

浙江省海寧県の出身、字は百里。私塾で学問に励み、1898年に科挙で選抜され、浙江大学の前身である求是書院に入学した。1901年には北京の精華学校に移ったが、間もなく日本の成城学校で働き始めた。そこで日本の援助を受けて成城学校に入学し、陸軍士官学校に入校するための予備教育を受けた。陸軍士官学校では最優秀の成績で卒業し(第15期)、いったん清に帰国して軍務に就いたが、間もなく4年間のドイツ留学が認められた。1910年に帰国してから奉天総督だった趙爾巽の司令部に参謀として配属されたが、翌1911年に武昌で清朝を打倒することを目的とした辛亥革命が勃発したことを受けて革命に加わった。その学識が評価されたため、1912年に陸軍士官学校である保定軍官学校の校長に就任し、1913年には大統領府で軍事顧問として袁世凱を補佐した。袁世凱は1915年に皇帝に即位して、自らの権力の強化を図ったが、かえって国内の分裂を招き、1916年に失意のうちに死去した。

1917年に蒋は政権を引き継いでいた中華民国の大統領に就任した黎元洪の軍事顧問を務めたが、黎元洪は間もなく大統領を退いたため、その余暇を利用して『軍事常識』(1917)を著している。1925年、漢口で呉佩孚(1874 - 1939)が率いる軍の参謀長を務めたが、1926年に孫伝芳(1885 - 1935)が率いる軍に移った。そこでは日本陸軍の岡村寧次(1884 - 1966)と共に軍事顧問として蒋介石が率いる国民党の軍と争った。孫は敗北を重ねて1927年に南京を放棄し、そのまま殲滅された。1929年に唐生智(1889 - 1970)と結んで反蒋同盟に加わったが、その反逆で1930年に身柄を拘束され、1933年まで南京で投獄された。釈放された後で日本を訪問し、日中戦争に準備するための防衛計画を作成すべきことを報告した。1935年に国民政府の軍事委員会に上級顧問として参加し、1936年にヨーロッパの視察旅行を行って、1937年には主著となる『国防論』を出版し、対日戦に関する研究の成果をまとめた。当時、貿易や軍事で関係が強かったドイツとイタリアに派遣され、特使としての任務を務めたのは、1937年に日本との戦争が拡大していたことが背景にある。帰国後、『抵抗戦争の基本概念』などの著作を発表して、対日戦を遂行するための研究をさらに進めたが、広西省で死去した。

著作

蒋方震の業績で有名なのは『国防論』(1937)である。これは孫武のような中国古代の兵家の思想を踏まえながら、欧米の近代的な軍事理論を取り入れた研究であり、日本に対する中国の国防戦略を論じたという意味でも歴史的に注目される業績である。中国における軍事学の発展に貢献した人物と評価されており、その著作も新しい版で出版されている。

  • 蒋百里『國防論 : 「戰」與「不戰」的經典論述』香港中和出版、2013年