なぜ戦争状態の途中で軍事行動が停止する場合があるのかをクラウゼヴィッツが説明している

なぜ戦争状態の途中で軍事行動が停止する場合があるのかをクラウゼヴィッツが説明している

2020年11月13日

1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したとき、イギリスとフランスはドイツに宣戦しました。しかし、その後もドイツの西部国境で戦闘が始まることはなかったため、「まやかし戦争」と呼ばれる奇妙な状況が生じていました。

19世紀のプロイセンの軍人だったカール・フォン・クラウゼヴィッツは、近代軍事学の権威ですが、このような状況が起きることは戦争の歴史において必ずしも珍しくないことをすでに指摘していました。戦争状態にあっても、軍隊が行動をとらず、無為に時間が過ぎることには軍事的理由があると説明しています。

クラウゼヴィッツは戦争状態が一般に活動的、行動的な時期であるという常識に反して、何の部隊行動も見られない停止している期間が相当あることに気が付いていました。むしろ、戦争において部隊が行動していることの方が珍しいと思えるほど、戦争では膠着状態がよく起きるのです。

広く戦史を渉猟すると、目標に向かって一途に前進する行動とはおよそ反対の事態が多々存することを知るのである。それだから軍事的行動の停止と無為とが戦争のただ中における彼我両軍の根本的状態であり、行動はむしろ例外に属するという印象を受けざるを得ないほどである」(参考文献、332-3頁)

クラウゼヴィッツは理論の上で戦争状態にある軍隊は敵の撃滅を目指して積極的に行動を起こすことであると考えられるにもかかわらず、現実の戦争状態にある軍隊が行動を起こさないことは興味ある事象であると考え、その停止の要因を考察しました。そして、3種類の要因を特定することができると主張しています。

本来は間断なく行われるはずの軍事的行動を妨げる三件の原因がある。そしてこれらの原因が戦争において内的な対抗力として現われ、ねじを巻いた時計仕掛のように動くはずの極めて迅速な、止まるところを知らない行動を阻害するのである」(同上、333頁)

一つ目の原因は優柔不断であり、これは「精神の世界におけるわば一種の重力である」とされています(同上、334)。ただし、これは危戦争に特有の危険と責任に対する畏怖の念によって発生するものであり、平素の優柔不断よりも深刻であることに注意が必要です(同上)。

これほどの重圧をはね除けるには、戦争の目的を思いみるだけでは十分ではない。この時に当たって進取的精神を具えた将帥が、あたかも水中の魚のように戦争を自分の本領と見なして軍を統率するのでなければ、あるいはまた重大な責任が自分に託されていることを自覚するのでなければ、軍事的行動の停止が日常の茶飯事となり、前進が例外となることは必至である」(同上)

二つ目の原因は人間の判断の不完全さであり、これは戦争状態においてますます顕著なものになります。司令官は、自分自身の状況さえも正確に知ることができず、敵情についてはほとんど推測に基づいて判断しなければなりません(同上)。もし我が方にとって非常に有利な状況であったとしても、敵が状況を誤解し、あたかも敵の方に優位があるように行動を起こす場合があります。そのような場合は、双方が相手の積極的な部隊行動に驚き、直ちに攻撃を中止し、様子を見ようとする場合がしばしば発生します(同上)。

三つ目の原因は、攻撃に対する防御の優位です。クラウゼヴィッツは戦闘における軍隊の運用として、防御の方が攻撃よりも有利であることが軍事行動を中断させる大きな要因であると考えました。

AがBを攻撃するには劣勢に過ぎると思ったところで、それならBはAを攻撃するに足るほど強力であるという結論は生じない。防御が攻撃よりも強力であるとすれば、防御の立場をとるだけで防御者には元来の力(a)に幾許かの力(b)が増加するわけである(a+b)。ところが攻撃者の方は攻撃のために元来の力(a)から幾許かの力(b)を失うばかりでなく(a-b)、防御者が防御態勢をとる限り、幾許かの力が加わっている理屈であるから(a+b)、彼我の力の差は(a+b)-(a-b)=2bとなり、有利な防御者の側に帰する」(同上、335頁)

ここでクラウゼヴィッツは防御の優位を踏まえれば、攻撃はより慎重にならざるを得ないということを認めています。ここの議論には問題点もあるので、記事の最後で計算例を示しながら補足しておきます(末尾の補足解説)。

いずれにしても、戦争における軍隊の作戦行動を中断させる原因として、司令官の優柔不断、情報の不完全性、そして防御の優位があることを述べた上で、クラウゼヴィッツは戦争は連続的に実施されるのではなく、断続的に実施されると主張しています。

上に挙げた三種の原因にかんがみて、次のような結論が生じる。戦役における軍事的行動は連続する運動ではなく、断続的である。したがってまた個々の戦闘のあいだには、互いに敵を監視し合うような時間が介入する。するとこの時期には、双方とも防御の態勢をとる。しかし彼我の一方が相手よりも高い目的を持つや否や、攻撃の原理が有力となり、こうして前進的姿勢に変じた攻撃者は、この姿勢を持ち続ける」(同上、338頁)

このクラウゼヴィッツの考察が正しいとするならば、戦争において攻勢をとるために、どのような困難を乗り越えなければならないかが分かります。有効な攻勢を軍隊にとらせるためには、司令官が断固とした決心を固めて、それを部下に下達しなければならず、また十分に彼我の状況を明らかにできるような情報を確保しなければなりません。

その上で、防御態勢をとる敵の優位を覆すことができるように攻撃者の戦闘力を発揮することが必要であり、それは数的優勢を期するために兵力を十分に集中することだけでなく、敵の防備が手薄な場所、時期を突いて奇襲を成立させることなどが考えられます。

戦争それ自体には軍隊の行動を停止させる側面があるという視点は、クラウゼヴィッツの軍事理論に特有のものであり、例えば戦時下において停戦が成立するための条件や、和平の交渉が本格化する条件を考察する際にも参考になるのではないかと思います。

武内和人(Twitter:武内和人noteアカウント:政治学を学ぶ

参考文献

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補足解説:防御の優位、攻撃の劣位を計算する

クラウゼヴィッツの論述には簡単な数理モデルが使われていますが、その使い方には疑問の余地があります。防御の優位を立証するためにクラウゼヴィッツが使った論法が妥当かどうかを確認するため、数値を使って計算をしてみるとそのことが分かりやすくなります。

想定として防御態勢をとった青軍10000が赤軍30000から攻撃を受けたとします。また、防御態勢をとることによって元来の兵力の3倍の戦闘力を発揮することができると想定します。この場合、クラウゼヴィッツが防御者の「元来の力」であるaの10000には、防御態勢をとることによって得られる「幾許かの力」b=20000が加算されるので、実質の戦闘力が30000になるという考え方になります。

対する攻撃者の赤軍は30000の兵力を持っていますが、こちらは防御態勢をとっていたならば兵力換算で90000に相当する戦闘力を発揮することができたはずであり、その差である60000を失った状態で攻撃を加えていると見なすことはできるかもしれません。しかし、この場合は青軍の戦闘力は兵力換算で(10000+20000)=30000であり、赤軍の戦闘力は30000のままと見なすべきでしょう。これだけで十分に攻撃に対する防御の優位を主張することができます。

しかし、クラウゼヴィッツが攻撃者である赤軍の戦闘力を見積もる目的で、赤軍が元来の力にわざわざ負の補正を加えています。この操作には疑問を感じざるを得ません

攻撃者は防御者よりも大きな損害を出しやすいので、そのことを上記の戦闘力の計算式に含ませることが妥当であると主張することはできるかもしれません。防御者は、前進する攻撃者に対して先んじて火砲や小銃で射撃を開始する可能性はあります。その予想される損害を青軍の本来の兵力から差し引くという意味で30000-xを攻撃者としての青軍の戦闘力として考えることは不可能ではありません。

しかし、そのような式の立て方を採用するなら、時期区分の問題が出てきます。攻撃者が戦闘力を発揮する時点と防御者が戦闘力を発揮する時点を一致させなければ、クラウゼヴィッツは攻撃者の戦闘力を不当に差し引いたことになってしまうでしょう。こうなるとクラウゼヴィッツの議論の進め方には無理が生じることが分かります。

おそらく、クラウゼヴィッツは防御者の戦闘力が強化されると述べた時点で、攻撃者の戦闘力が実質的に差し引かれていることを忘れていたか、誤解していたのだろうと思います。防御者に対する攻撃者の兵力比は、防御者の元来の兵力aにbという補正値を与えた時点で、すでに防御者にとって有利なものに変わりますから、攻撃者の兵力に何か補正値を与える必要性はないはずです。