中世ヨーロッパで軍事学の権威とされたウェゲティウスの影響が限定的だったと指摘される

中世ヨーロッパで軍事学の権威とされたウェゲティウスの影響が限定的だったと指摘される

2020年7月7日

はじめに

中世ヨーロッパの軍事思想史に関する研究では、古代ローマの著述家ウェゲティウスが書き残した著作『軍事学の大綱』の影響が注目されてきました。

ウェゲティウスの著作では4巻にわたってローマの軍制や運用について論じられています(参考記事:古代ローマのウェゲティウスは「戦いの原則」として何を書き残したのか)。非常に実践的な内容となっており、また写本が多数制作されているため、歴史学者はウェゲティウスの影響を強調しています。

しかし、ウェゲティウスの著作がヨーロッパの戦争に及ぼした影響を厳密に特定しようとすると、いくつかの疑問も浮かび上がってきます。今回は、カーディフ大学の教授ヘレン・ニコルソン(Helen J. Nicholson)の著作『中世の戦争:ヨーロッパにおける戦争の理論と実践、300年ー1500年(Medieval Warfare: Theory and Practice of War in Europe 300-1500)』の議論の一部を紹介し、ウェゲティウスが中世ヨーロッパの学者の間でしか読まれていなかったという説を検討してみましょう。

ウェゲティウスが与えた影響の範囲に関して議論の余地あり

ウェゲティウスの著作の内容を大まかに紹介しておくと、1巻では兵役に適した人材の選抜や駐屯地の設営について、2巻では軍隊の編成、歩兵、騎兵、工兵などの役割について、3巻では軍隊の運用について、4巻では攻囲と籠城、さらに海戦について取り扱っています。これだけでもウェゲティウスが戦争に関する問題を幅広く論述していることが分かります。どれも実践的な内容であり、軍人が読むことを念頭に置いて書かれたことが伺われます。

しかし、中世ヨーロッパの軍隊の編成や運用に与えた影響は過大評価されているのではないかという説をニコルソンは唱えています(Nicholson 2004: 14)。ニコルソンはウェゲティウスの議論がさほど特殊なものではなく、軍事的観点から見れば常識的な事柄に属するものが多いことを指摘しています。つまり、中世の軍人がウェゲティウスの議論に沿って行動しているように見えても、それを根拠としてウェゲティウスの影響を特定する方法は、学術的に見て公平な基準とは言えません(Ibid.: 15)。

さらにニコルソンは古典時代の文献を読む能力が欠けている軍人が多かったことも指摘しており、彼らがウェゲティウスの著作を丹念に研究するだけの意思と能力があったのか疑問視しています。例えば、ビザンツ帝国の戦史を書き残した歴史家のプロコピウスは、520年代にドイツの有力な貴族がイタリアのある王妃に向かって、王子に古典の勉強を止めさせるように進言した場面を記述しているのですが、その理由というのが学問によって男の勇敢さが台無しなり、軍人に不向きになってしまうというものでした(Ibid.: 16)。

ウェゲティウスの著作が当時の軍人にとって読むことが難しいラテン語で書かれていたことも考慮しなければなりません。ニコルソンは14世紀のフランス騎士ジョフロワ・ド・シャルネイ (Geoffroy de Charnay)が騎士団復興のため、騎士道の著作を書き残したことを取り上げていますが、そこでウェゲティウスが参照、引用されていないことは、不思議なことではないと指摘しています(Ibid.)。この著作でも戦争は学問の対象ではなく、あくまでも経験から習得される技術として見なされていました。

ウェゲティウスの意義を見直したのは学者・著述家の功績

軍事学史にとって興味深いのは、中世ヨーロッパにおいて軍人にあまり人気がなかったウェゲティウスの思想を普及させたのは、学問や著述に専念する聖職者や著述家だったということです。彼らは古代ローマの軍事学を普及させる上で重要な役割を果たしました。ただ、その影響があったことが特定できるのは13世紀以降であるとニコルソンは論じています。

パリ大学で博士号を取得した聖職者のエギディオ・コロンナは、フランスで王子を教育するための著作をラテン語で残し、そこでウェゲティウスの議論を繰り返し引用しました(Ibid.: 18)。明らかにコロンナはウェゲティウスを軍事学の権威と見なしており、1296年に王命でコロンナの著作がラテン語からフランス語に訳されると、他のヨーロッパの言語にも次々と訳されていきました(Ibid.)。

影響力という点でさらに注目すべきはイタリア出身の著述家クリスティーヌ・ド・ピザンであり、彼女の著作でもウェゲティウスを権威ある文献として位置づけ、多くの記述を参考にしていたことが分かっています(Ibid.: 19)。ピザンの著作は15世紀前半のフランスで広く読まれましたが、15世紀末のイングランド王ヘンリー七世にも読まれ、軍事教育のための文献として位置づけられていました。これはウェゲティウスの業績が中世ヨーロッパの軍事思想に間接的に影響を及ぼした事例であり、ニコルソンは次のように述べています。

「イングランド王ヘンリー七世が戦争で自身の部下たちを教育するため、この(ピザンの)著作を英訳することを選んだ。この事実は、この(ピザンの)著作には戦い方を教えるだけの価値があったことを示唆している。したがって、ピザンがウェゲティウスの著作を利用したことは、少なくとも15世紀のフランスとイングランドにおいて軍人がウェゲティウスの著作の影響を受けていたことを裏付ける証拠である」(Ibid.)

ニコルソンは中世ヨーロッパでは長らく軍人にとって学問が本分ではないという思想が支配していたため、ウェゲティウスが知られるようになったこと自体が大きな転換だったことを強調します。つまり、これはヨーロッパにおいて長らく失われていた軍事学の権威が回復されたことを示しています。

むすびにかえて

軍戦争は個人の技術によって遂行されるものであり、知識や理論によって遂行できるものではないという考え方は中世ヨーロッパの軍人に広く受け入れられていました。そのためウェゲティウスの影響も学界にとどまっていた可能性が大きいとニコルソンは考えています。

しかし、それはウェゲティウスの歴史的な意義を否定するものではありません。ウェゲティウスの著作は中世末期において聖職者や著述家に参照され、翻訳され、普及されるようになり、15世紀までに少しずつ影響力を持つようになっていったのです。