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第一次世界大戦のロシア軍ではドイツ軍との塹壕戦を通じて、戦局の停滞を打破できる部隊運用の方法を確立する必要が認識されていた。写真:撮影者不明 1910~15年? George Grantham Bain Collection収録)
作戦術を軍事理論の新しい概念として戦略と戦術の中間に位置付け、新たな原則や理論を模索し始めたソ連の軍人たちの関心は、いかに消耗戦を機動戦へ持ち込むかを明らかにすることにありました。
ロシア革命直後、彼らは第一次世界大戦の東部戦線でドイツ軍を相手に塹壕戦を経験しており、陣地戦に起こりがちな戦局の停滞、そして戦争の長期化に防ぐ必要性を強く感じていました。そのため、ソ連軍では1920年代から新しい部隊運用を模索するため、理論的研究が活発になります。
陸軍大学校で教官として戦略学を教えていた軍人スヴェーチンは1923年から1924年の講義を通じて初めて作戦術という概念を提唱し、それに定義を与えています。
その定義とは「戦役の任意の期間において、上位から設定された基本的目標を達成するために軍事的活動が展開される領域が設定されたとき、その領域における機動と戦闘を包括するもの」というものであり、これが新たな研究領域を切り開く突破口となりました(Kipp 1992: 108)。
このスヴェーチンの着想を継承したのが軍人ヴァルフォロミフでした。彼は第一次世界大戦の経験を踏まえて、戦争がかつてなく広域的に行われるようになったことを指摘し、これまでの戦史で見られたような一度の決戦で敵軍を殲滅する作戦では、部隊の運用上限界があると認識しました。
そこでヴァルフォロミフはこの問題を解決するためにスヴェーチンの作戦術を取り入れ、戦域全体として見た場合に味方の戦略的一貫性を保ちながらも、複数の作戦を同時的、かつ迅速に実施し、敵の後方に深く進撃する構想を唱えます。
これが縦深戦闘(deep battle)の構想であり、ソ連軍におけるドクトリンの研究において重要な一歩ともなりました。作戦術の研究は1920年代末から1930年代にかけて目覚ましい進展を見せます。
縦深戦闘の概念図。攻勢作戦において敵の第一線部隊を突破するだけでなく、連続して第二線部隊も突破し、敵の後方地域に深く攻撃前進している。敵の司令部や基地などが配置されている後方地域を失った第一線部隊は組織的な戦闘が不可能となる(Harrison 2010: 114)
ヴァルフォロミフと同時期に作戦術の意義に気が付いた軍人にトリアンダフィーロフがいます。彼は1929年の著作『現代の軍事作戦の特性』においてヴァルフォロミフが構想した縦深戦闘を具体化するための課題を検討、整理しました。
さらにソ連軍のドクトリンに作戦術の思想を取り入れるため、軍人トゥハチェフスキーと共に新たな赤軍の教範作成に取り掛かりました。
1929年に暫定版の教範が完成し、この時をもって作戦術は初めてソ連軍のドクトリンの中で正式な地位を与えられることになりました。ところが、改革が進み始めた1931年にトリアンダフィーロフが飛行機事故で死去してしまい、その後の研究はトゥハチェフスキーの手に委ねられることになりました。
その後、1930年代のドクトリンの研究はトゥハチェフスキーによって大きく前進しました。着実に研究を進め、その成果は1933年、1936年に改訂した教範の内容に反映されました。注目すべきは、敵を縦深突破するため、トゥハチェフスキーが機動力に優れた機械化歩兵部隊、機甲部隊、航空部隊をソ連軍に導入するだけにとどまらず、これらの部隊を統合的に運用することで相乗効果を得ようとした点であり、これは当時としては独創的な発想でした。
ただし、1936年の教範の改定はトゥハチェフスキーの力だけで成し遂げられたものではなく、1929年から陸軍大学校の教官として教鞭をとっていた軍人イザーソンからの助力があったことを指摘しなければなりません。
イザーソンの軍事思想は、スヴェーチンから始まったソ連軍における作戦術の研究成果の集大成といえます。イザーソンは戦域で敵軍を打ち破るため、全正面、全縦深にわたって計画的、段階的に調整された高効率な戦闘システムを作り出すことが作戦術の最重要課題であると考えていました(Isserson 2013: 26)。
イザーソンの中で作戦術はもはや戦略と戦術の中間における機動や戦闘の単位ではなくなっていました。従来の縦深戦闘の理論を陸上戦力と航空戦力の統合運用と結びつけるだけでなく、海上戦力も包括した統合運用の理論へ発展させました。
スヴェーチンが唱えた作戦術の概念は、ヴァルフォロミフ、トリアンダフィーロフ、トゥハチェフスキー、そしてイザーソンを経て近代的な統合作戦の構想に到達したのです。
作戦術の研究においてソ連の軍人が画期的な成果を上げましたが、その末路は悲惨としか言いようがありません。1937年、スターリンが大規模な粛清に乗り出し、次々と軍人を反革命罪の容疑をかけて処刑したためです。
1937年にトゥハチェフスキーが、1938年にはスヴェーチンが処刑され、ヴァルフォロミフは刑務所で獄死しました。イザーソンは辛うじて死を免れましたが、1941年に逮捕されてから名誉回復されるまでの14年の歳月を労働収容所で過ごさなければなりませんでした。
このような政治的事情があったため、ソ連軍の内部で彼らの理論的研究を評価することは非常に難しい状況が続きました。そのため、作戦術の研究で成果を上げた彼らの名前も長らく忘れ去られます。
しかし、1980年代以降に彼らの貢献の大きさが見直されるようになり、また米軍でも研究が進んだことで再評価が進み、現在に至っています。
もちろん、作戦術の妥当性に疑問を投げかける声もあります。作戦術はかなり大規模な軍隊が広域的、継続的に運用される状況を想定しているため、例えば日本のような国のドクトリンとして直ちに取り入れることができるものではないでしょう。
しかし、今後の自衛隊が陸海空の統合運用を推し進めようとするのであれば、作戦術の研究には参考になる要素があるのではないでしょうか。
武内和人(Twitterアカウント;noteアカウント)
Georgii Samoilovich Isserson, The Evolution of Operational Art, Trans. Bruce Menning, Fort Leavenworth, KS: Combat Studies Institute Press, 2013.
Jacob Kipp, Soviet Military Doctrine and the Origins of Operational Art, 1917-1936, in Soviet Doctrine from Lenin to Gorbachev, ed. William C. Frank Jr. and Philip S. Gillette, Westport, CT: Greenwood, 1992.
Richard W. Harrison, Architect of Soviet Victory in World War II, Jefferson, NC: McFarland & Company, 2010.