ローデン

ローデン

ハンス=デトレーフ・ヘルフート・フォン・ローデン(Hans-Detlef Herhudt von Rohden, 1899年9月23日 - 1951年12月14日)はドイツの空軍軍人である。空軍戦略の研究において知られている。

経歴

リーグニッツ出身。第一次世界大戦ではドイツ陸軍において砲兵科将校として従軍し、戦後もワイマール共和国軍に残った。当時、ドイツはヴェルサイユ条約によって軍備制限を受け、空軍の保有も禁じられていたが、1929年からローデンはソビエト連邦に秘密裏に設置された飛行学校に入校し、操縦士として教育訓練を受けていた。

1933年にドイツでアドルフ・ヒトラーが政権を掌握し、空軍を含む軍備拡張に乗り出したことを受けて、1934年に陸軍から空軍へ移籍し、空軍の参謀本部に配属された。1937年に部隊指揮官としての勤務を経て、国防軍大学校では航空戦略を研究しており、その成果は『航空戦争論(Vom Luftkrieg)』(1938)でまとめられた。これは旧態依然とした陸海軍に対する空軍の従属とも、ドゥーエが唱えた独立空軍とも距離を取りながら、戦況に応じて柔軟に攻撃目標を切り替える空軍のあり方を唱えるものだった。

この著作が出た年からローデンは航空部隊の要職を歴任し、1939年の第二次世界大戦の勃発時には第1戦闘航空団に所属してポーランドでの作戦に参加した。フランスと戦った1940年には第4戦闘航空団(Kampfgeschwader 4)の団司令として指揮をとり、1941年の第4航空軍団の参謀長として独ソ戦に参加した。一時的に西ヨーロッパに赴任した時期もあったが、間もなく東部戦線で第4航空艦隊の参謀長として勤務した。1943年には空軍の参謀本部に配属され、1945年にアメリカ軍の捕虜になるまでその地位に留まった。1947年に身柄は釈放されたが、1951年にヴィースバーデンで死去した。

思想

ローデンは空軍戦略に関する考察を書き残しているが、その中に空軍基地の立地問題を扱ったものがある。それによれば、地政学的な各国の勢力圏を描き出した上で、その全体に対して航空部隊が活動できるように空軍基地は配置しなければならない。その際に、全体の空軍基地の配置は三角形を形成していることが望ましく、それぞれの頂点に当たる空軍基地が隣接する空軍基地と相互に支援し合うことができるだけなく、その三角形の内側に十分な避難のための地域を確保しておくことが有利である。

つまり、このような戦力態勢を固めるためには、広大な土地を領土として支配しているか、あるいは多数の同盟国を維持することがその国に求められる。したがって、小規模な領土しか持たない国家は空軍戦略の観点から見て縦深に乏しく、航空戦争を遂行する上では不利になり、国土の防衛において大きな困難に直面する可能性が高い。このような観点からローデンの研究は空軍の戦略、そして引いてはエアパワーの見地に立った地政学を論じたものであると理解できる。

また空軍の任務については、当時のドイツ空軍が陸軍との統合運用を重視していたこともあって、ドゥーエが唱えたような戦略爆撃の思想に走ることなく、より柔軟な姿勢で航空作戦を指導することが必要だと論じた。たとえば、ローデンは航空攻撃の威力が戦争の展開に重大な影響を及ぼすとして、開戦と同時に実施する第一撃の威力を重視したが、それでも空軍の第一撃だけで敵を屈服させることはほぼ不可能であると限界があることを認めている。ローデンは空軍が戦略の原則を抜本的に変えることはなく、戦略の前提にある空間的、時間的条件が変化すると捉えていた。

業績

ローデンの著作は戦前に翻訳されており、日本語で詠むことができる。ただし、現在ではAmazonでも入手が非常に難しくなっており、国立国会図書館デジタルライブラリーで検索しても見つけることができない。

  • Rohden, Hans-Detlef Herhudt von. 1938 Vom Luftkrieg, Berlin: Mittler.(翻訳「空戦論」『空軍・空戦論』原幹二訳、改造社、1942年)