シャルンホルスト

シャルンホルスト

ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト(Gerhard Johann David von Scharnhorst 1755年11月12日 - 1813年6月28日)はプロイセンの陸軍軍人であり、研究、教育、改革を通じてプロイセン軍の近代化に貢献した。

経歴

ハノーファーのボルデナウの出身。ハノーファー軍の竜騎兵連隊で曹長として勤務していた軍歴を持つ裕福な農民の家に生まれた。ヴィルヘルムシュタインの学校で士官候補生として教育訓練を受けて少尉に任官し、1778年に連隊の隷下にあるノルトハイムの学校で教官を務めていたが、砲兵学校に招聘され、軍事学に関する調査研究に従事した。その成果は『軍事学を応用する士官のためのハンドブック(Handbuch für Offiziere in den anwendbaren Teilen der Kriegswissenschaften)』(1788)と『野戦必携(Militärisches Taschenbuch für den Gebrauch im Felde)』(1792)として発表され、版を重ねた。1792年にフランス革命戦争が勃発するとメニンの戦闘で軍功を上げ、ハノーファー軍の参謀本部で勤務している。

戦後、フランス革命軍の戦闘力の高さを調査するなど研究を続けていたが、貴族階級の出身ではなかったために昇進は難しかった。そのため、貴族の称号を条件に招聘を打診したプロイセン軍に移ることを決めた。1801年からベルリンの第3砲兵連隊兵站部に配属され、軍事学の教育や研究に従事しており、この時期に学校の学生だったクラウゼヴィッツを指導している。1806年にブラウンシュヴァイク公の参謀長になり、ナポレオン戦争での戦闘にも参加し、アウラウの戦いでの軍功で勲章を受けた。1807年に講和が成立してからは陸軍再建委員会の委員長として一般徴兵制の導入、参謀本部の設置、人事における貴族特権の廃止などに取り組み、プロイセン軍の近代化に貢献した1813年のロシア戦役でナポレオンが敗退し、プロイセンが対仏戦に乗り出すと、兵站総監として作戦の指導に携わった。しかし、1813年のグロスゲルシェンの戦いで負傷し、その怪我が致命傷になった。プラハにて死去。

著作

シャルンホルストの著作は日本語に翻訳されておらず、英語の翻訳も見当たらないので、ドイツ語の知識が必要になる。『軍事学を応用する士官のためのハンドブック』はシャルンホルストの死後に当たる1815年に出版された版がデジタル化されており、以下にリンクを用意しておく。