コーベット

コーベット

ジュリアン・コーベット(Julian Corbett, 1854-1923)はイギリスの軍事学者であり、『海洋戦略の諸原則』などを著したことで知られる。

経歴

1854年、ロンドンで裕福な建築家の家に生まれた。マールバラ校を経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで法学を修め、最優秀学位を取得した。1879年、法廷弁護士の資格を得たが、不労所得で生活することができたため、3年後の1882年には仕事から手を引き、海外を旅行している。1886年から著述業に転じてフィクション小説『アスガルドの陥落』を執筆し、翌1887年には『神と黄金のために』を発表した。いずれの作品も海洋を舞台にした物語であり、それほどの売上はなかったが、出版社のマクミランはコーベットに伝記の仕事を依頼し、これ以降本格的に歴史の著作を手掛けるようになった。

本格的に軍事史の研究に着手したコーベットは、1896年に海軍記録協会に入会し、史料の編纂に携わる。1898年に『ドレークとチューダー朝の海軍』を出版すると海軍史の研究として注目を集め、1899年に結婚した妻の後押しもあって、海軍史の研究に専念することを決めた。1900年に『ドレークの後継者』を出版すると、研究者の間で再び好評を得て、コーベットは小説作家から歴史家への転身を果たし、海軍の方面に人脈を広げていった。

その頃、コーベットは第二海軍卿ジョン・フィッシャー(John Fisher)から支援を受けた。1902年に王立海軍大学校の講師に就任した他、海軍省の業務にも携わり始めた。翌1903年からはオックスフォード大学でも講義を受け持っている。この時期にコーベットは海洋戦略に関する調査研究を本格化させ、その研究の対象を広げていった。1910年に出版した『トラファルガー海戦』が好評を博し、1911年に出版された理論的研究『海洋戦略の諸原則』は、クラウゼヴィッツの戦略思想を踏まえた独自の海洋戦略が提出された。しかし、当時、海軍戦略の分野で知られていたアルフレッド・セイヤー・マハンの学説を批判し、海戦の重要性は陸戦との関係で決まると主張したことが論争を招いた。

第一次世界大戦が勃発すると海軍の嘱託として勤務し、戦後にはユトランド海戦に関する公式な戦史を執筆した。しかし、海戦の決定的な効果に疑問を投げかけるコーベットの説に対して海軍省は批判的立場をとり、内容をめぐって対立した。最終的に海軍本部委員会はコーベットの見解に対する免責表明を盛り込むことで出版に同意した。しかし、コーベットが死去したのは1922年であるため、1923年に自分の公式戦史の最終巻が出版されるのを見ることはなかった。

思想

コーベットの研究の特徴は海軍の作戦を陸軍の作戦との関係で考察しようとしていることである。その関心は初期の著作『ドレークとチューダー朝の海軍』にも反映されており、この著作で当時のイギリスがスペインとの戦争で地上部隊を上陸させることができなかったために、スペイン軍を徹底的に撃滅できなかったと指摘している。また『七年戦争におけるイギリス』においても、海上戦闘で勝利することばかりを重視することが深刻な問題をもたらすと主張し、陸海軍の統合運用が重要だと指摘した。

統合運用を重視するコーベットは、マハンが唱えるシーパワーの議論に対して批判的だった。コーベットはシーパワーの効果が大陸を支配する国家に対して及ぶことが歴史上あまりなかったことを踏まえ、シーパワーの優越があったとしても、その運用に問題があれば、戦争が長期化する恐れがあることに注意を促した。イギリス海軍がスペイン海軍の無敵艦隊を撃滅した後も、終戦に持ち込むまでに15年の歳月を要したこと、またトラファルガー海戦で決定的勝利を収めた後もナポレオン戦争が10年も継続したことが、こうした主張を裏付けている。海戦は陸戦に比べて副次的な効果しかもたらさないことを理解しなければ、シーパワーの価値を過大評価することに繋がるとコーベットは警戒していた。

主著

コーベットが残した軍事学の著作で最も重要なものは『海洋戦略の諸原則』(1911)である。コーベットはこの著作でマハンの『海上権力史論』(1890)の限界を乗り越えるため、クラウゼヴィッツの理論によって海軍戦略を基礎付けており、その後の理論的研究にとって重要な視点を示した。近年、日本でも関心が高まっており、複数の翻訳がある。矢吹訳が最も新しく、入手が容易である。