カエサル

カエサル

ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar 前100年? - 前44年3月15日)は、ローマの政治家、軍人である。『ガリア戦記』などの戦記を書き残した功績で知られている。

ローマでも由緒ある貴族の家に生まれ、前84年に神祇官になった。しかし、前83年にローマ進軍でスッラが政変を起こしたことから、前81年には国外への亡命を余儀なくされた。ギリシア、アナトリアの属州で軍務に就くことになった。前78年にスッラが死去したためローマに帰還し、汚職の告発や海賊の討伐を通じて自らの勢力を拡大した。これ以降、カエサルは次々と要職を歴任し、前71年に軍団司令官、前70年に財務官、前65年に造営官に就任した。前63年に大神官に就任した際には、積極的な政治工作で支持を集め、対立候補に勝利した。前61年に属州総督としてスペインに赴任し、そこで敵対する部族を討伐し、莫大な資産を築くことができた。さらにローマで有力な政治家だったポインペイウスとクラッススと結んで三頭政治を確立することにより、前60年に執政官の地位を手に入れることに成功した。

前58年に執政官の任期を終えたカエサルはガリア戦争に乗り出し、ローマに従わない北方の部族を討伐し始めた。カエサルがガリア戦争に従軍している間、ローマではポンペイウスとクラッススが執政官に選出されており、彼らの根回しによってカエサルの総督の任期は5年にわたって延長された。ガリア戦争で得た戦利品によりカエサルは個人の資産を増加させ、さらに歴戦の軍団を自らの支持基盤に取り込むことができた。前53年、軍を率いてパルティアに侵攻していたクラッススが戦死したことで、三頭政治の均衡が崩れたことにより、カエサルとポンペイウスの関係に変化が生じた。

前52年にガリア戦争で勝利を収めたカエサルだったが、前49年にローマではカエサルの総督としての任を解き、帰国することを命じる布告が出された。この布告をきっかけにカエサルはポンペイウスと全面的に争う姿勢をとることを決意し、前49年にローマを非合法的に軍隊で占領した。まだ戦備が整っていなかったポンペイウスとその味方はカエサルの進軍を受けてギリシアへと脱出したため、内乱は長期化の様相を呈した。まずカエサルはスペインへ軍を進めてポンペイウス派の勢力を一掃し、翌前48年にギリシアへ侵攻した。一進一退の攻防が繰り返されたが、8月のファルサルスの戦いでカエサルは勝利を収め、ポンペイウスはエジプトに逃亡したが、船上で殺害された。

カエサルはポンペイウスを追跡してエジプトに上陸し、その死を確認した。さらにエジプトの政情に介入してクレオパトラ七世を女王に擁立し、自らの統制下に置いた。ローマでは任期1年の独裁官に選出されたことで政権を強化することに成功し、その後もポンペイウス派の残党を討伐する作戦を継続した。前45年にローマ内乱を終結へと導いた際には、カエサルは終身の独裁官として絶大な権力を獲得しており、民衆からも幅広い支持を受けていた。終身独裁官としてのカエサルの振る舞いは、ポンペイウス派が多かった元老院の不満を高め、前44年に元老院の院内で暗殺された。

著作

カエサルの著作で特に有名な『ガリア戦記』は平明な文体で書かれた戦記であり、当時のローマ軍がどのように戦っていたのかを知る上で貴重な史料と位置付けられる。この戦争を通じてカエサルは何度も数的な劣勢に直面しており、特に前52年にウェルキンゲトリクスがガリアで蜂起した際には深刻な危機に見舞われたものの、規律に優れたローマの軍団を巧みに指揮して戦局を好転させた。このため、軍事学史においてもマキアヴェリナポレオンクラウゼヴィッツなど、数多くの人々から優れた政治家・軍人として評価されてきた。