戦闘シミュレーションの新手法を普及させた『人工戦争(Artificial War)』

新しい戦闘シミュレーションの手法を紹介した『人工戦争(Artificial War)』

2020年7月3日

はじめに

軍事学の中でもシミュレーションは実務と深く結びついた領域です。歴史的にはオペレーションズ・リサーチの中に位置づけられるため、相対的に見て新しい研究領域だと言えますが、予測の精度を改善するため、絶えず新しい手法が試されている分野でもあり、研究の蓄積も膨大です。

例えば、2000年代に議論された問題の一つとして、戦争をさまざまな要素に還元して理解することの限界が指摘されたことがありました。戦争では、一部の要素が全体に影響を及ぼすだけでなく、全体もまた一部の要素に影響するため、その結果を単純なモデルで予測することができないという議論です。

この限界を乗り越えるために取り込まれたのが複雑系の研究であり、アメリカ海軍の研究者アンドリュー・イラチンスキーの著作『人工戦争:戦闘のマルチエージェントベース・シミュレーション(Artificial War: Multiagent-Based Simulation of Combat)』(2005)はその成果を一般の読者に向けて解説した最初期の著作でした。今回はこの著作の内容の一部を紹介したいと思います。

セルオートマトンを発展させた戦闘シミュレーション

この著作の大部分はモデルの数理的な構造やプログラムとして実装する方法の解説です。数式やソースコードを交えた解説が続くため、一般の読者にとって読みやすい著作とは言えません。

ただし、戦争への理解とプログラミングの能力を併せ持つ読者、例えばコンピュータ・ウォーゲームの開発者であれば、複雑系の科学を戦闘シミュレーションに応用し、その挙動をいかに実戦に近づければよいかが詳しく解説されています。8章構成となっており、目次は以下の通りです。

  1. はじめに

  2. 非線形ダイナミクス、決定論的カオス、複雑適応系

  3. 非線形性、複雑性、戦争

  4. EINSTein:数理的概観

  5. EINSTein:方法論

  6. EINSTein:標本行動

  7. エージェントの育成

  8. 結論としての見解と推論

この目次から読み取れるように、著者はシミュレーション・ソフトウェアとして自身が開発したEINSTeinについて論じています。その議論によれば、EINSTeinの原型は複雑系の分野でよく知られているセルオートマトン(cellular automaton)でした。

そもそもセルオートマトンとは、格子状の空間に配置されたセルに、特定の挙動を行うようにルールを与えて実行する計算モデルです。著者はイギリスの物理学者スティーブン・ウルフラムが発表したセルオートマトンの研究に大いに触発され、その成果を応用してISAACという戦闘モデル開発しました。このISAACを発展させたものがEINSTeinです。

読者がまず気になるのは、著者のシミュレーションがどれほど現実の戦闘を再現することに成功したのかという点だと思います。これに関しては著作の中で海兵隊の退役中将ポール・ヴァン・リパーがコメントを寄せており、戦闘経験を持つ海兵隊員にISAACのプログラム実行を観察させたところ、現実の戦闘・交戦を模倣した活動のパターンが直ちに認められたと報告しています。

EINSTeinで採用されている規則の特徴

著者はEINSTeinをC++というプログラミング言語で実装しました。システムの構成としては(1)戦闘エンジン、(2)グラフィカル・ユーザ・インターフェイス、(3)データ収集及びデータ視覚化の3つの要素に分かれます。最も重要なのは言うまでもなく戦闘エンジンであり、EINSTeinでは歩兵、戦車、装甲車などの単位をエージェントとして設定し、(1)ドクトリン、(2)任務、(3)状況認識、(4)適応性の4つの属性を設定しました。

「各エージェントは、健在、負傷、戦死の3つの状態のいずれかで存在する(事後的に継続的な健康状態値を導入する)。負傷状態のエージェントは、健在状態とは異なる特性、攻撃的・防御的な特性を持たせることが可能である(これは必須ではない)。例えば、ユーザーは、負傷状態のエージェントが健在状態のエージェントに比べて半分の距離しか移動ができず、射撃の精度も半分になると指定できる」(281)

これ以外にも、著者はエージェントの行動に影響を及ぼすさまざまな規則を導入しています。それぞれのエージェントには異なる性能のセンサーを備えるだけでなく、武器の射程や通信が可能な範囲を変更することもできます。EINSTeinでは、局地的な作戦の指揮をとる指揮官と、全体の指揮をとる指揮官を両方想定することも可能であり、階層的な指揮統制のシステムを考慮することもできることも述べられています。(Ibid.)。

著者はいずれの規則もセルオートマトンの規則を拡張することで実装が可能だとしていますが、ただし戦闘シミュレーション・モデルとして構築する際には、個別のエージェント(つまり歩兵、戦車、装甲車などの戦闘単位)は単にその周囲の情報だけに反応して行動するわけではなく、全体の状況と指揮の構造に従って行動することが可能であることに注意するように呼び掛けています(Ibid.: 282)。こうすれば一定の指揮系統を守る状態でエージェントがどのように現地の状況に応じた行動をとらせることができます。

ただ、著者は上層部の作戦方針が常に一定の内容に固定された状態のまま状況は進行するため、例えば戦局が抜本的に変化したとしても、エージェントは上官が示した方針を最後まで守らなければなりません。これはあまり現実的ではないと著者も認めており、今後の課題だとしています(Ibid.)。

ランチェスター方程式の限界を乗り越えるための方法

著者がこのようなソフトウェアを開発した背景にはランチェスター方程式に基づく従来のシミュレーションに限界を感じていたからでもありました。ランチェスター方程式はイギリスの技術者フレデリック・ランチェスターによって開発された戦闘モデルであり、彼我の勢力比によって、それぞれの部隊が受ける損害の大きさを予測するのですが、著者はEINSTeinの方が優れているとして次のように述べています。

「戦闘に関するランチェスター型のアプローチが、戦闘の原始的な要素を過度に単純化し、そのことが「システム」としての戦闘の挙動の本来のあり様を、すべて取り去ってしまうことを我々は見てきた。それとは対照的に、本書で説明されたEINSTeinのシミュレーションは、何よりも『孫子』から引用された文言に沿って研究者が戦闘を理解させるように設計された双方向的な探索の手法である」(544)

著者がここで触れているのは勢篇の文言であり、「戦闘の勢いは奇法と正法とに過ぎないが、それらが交じり合った変化は無数あり、とても極めつくせるものではない」というものです。著者は『孫子』のこの思想は複雑系に対する理解に通じるものがあると考え、これをEINSTeinのアプローチで部分的にでも再現することを目指していました(Ibid.)。

むすびにかえて

非常に単純な規則を与えたエージェントが架空の戦場で事前に予測できない動きを研究できるようにしたことがEINSTeinの特長です。ランチェスター方程式では決して予測ができない事象への理解を深めることに役立ったと著者が述べていることは、根拠がないわけではありません。

EINSTeinはかつてはオンラインで入手することも可能なソフトウェアだったようですが、現在は検索してもソースコードを見つけることができていません。著作では、特に重要な部分のソースコードが示されていますが、全部が公開されているわけではありません。もし入手方法に関する情報をお持ちの方は、Twitterを通じてご連絡を頂ければ大変助かります。

その後も学界で著者のアプローチはマルチエージェント・シミュレーションとして広く知られており、今でも関連する研究が出ているようです。新しい研究動向に関心がある方はAndreas Tolk, ed. 2012. Engineering Principles of Combat Modeling and Distributed Simulation, John Wiley & Sons.を参照してみてください。