ミッチェル

ミッチェル

ウィリアム・ミッチェル(William Lendrum Mitchell, 1879年12月28日 - 1936年2月19日)はアメリカの陸軍軍人である。航空戦略の先駆者の一人として知られている。Billy Mitchellとも呼ばれる。

経歴

フランスのニースでアメリカ上院議員ジョン・ミッチェルと妻ハリエットの間に生まれた。ウィスコンシン州ミルウォーキーで育ち、ワシントンDCのコロンビア大学(現在のジョージ・ワシントン大学)で学んだ。大学の卒業を待たずにアメリカ陸軍に志願兵として入隊し、1898年に勃発した米西戦争では第一ウィスコンシン歩兵連隊の一兵卒としてキューバ、フィリピンで従軍した。1901年に少尉に任官され、歩兵科から通信科に転科となった。アラスカに派遣され、そこで本国との通信線の開設に携わった。1907年から1909年まで幕僚大学校で学び、メキシコ国境の勤務を経て1912年には参謀本部に配属された。

ミッチェルが航空戦力の訓練や運用を本格的に研究し始めるのは、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発してからのことである。当時、まだアメリカ陸軍では航空科の将校がおらず、航空戦力の拡充が急務とされた。ミッチェルは1915年に通信大隊の航空班に配属され、1916年には操縦士になった。1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦することが決まると、航空科に転科し、アメリカ遠征軍の一員として西部戦線に派遣されることになった。西部戦線でミッチェルは多くの戦闘を経験し、大規模な航空部隊を指揮した。同時に連合航空部隊司令官に就任した。戦争が終わった1919年に陸軍の航空部隊副司令官の地位に就き、独立空軍の必要を内外で主張し始めた。帰国後に『我が空軍(Our Air Force: Keystone of National Defense)』(1921)、『空軍による防衛(Winged Defense: The Development and Possibilities of Modern Air Power: Economic and Military)』(1925)を出版するなど、航空問題の専門家として認知されるようになった。

しかし、ミッチェルの影響力が大きくなるにつれて、反発も大きくなっていった。ミッチェルの立場は陸海軍の統帥部だけでなく、政府に対する批判にも繋がった。当時の陸海軍は航空戦力の意義を過小評価する傾向にあり、また政府は航空戦力の整理縮小を進めていた。ミッチェルはこうした態度を公然と批判したため、1925年には准将から大佐に降格され、テキサス州の第八軍団に転属された。その数カ月後にアメリカ海軍の飛行船が悪天候で墜落し、14名の犠牲者を出す航空事故が発生し、ミッチェルは安全管理の責任を怠っていると上層部を公に批判した。このことが軍法会議にかけられる原因になり、有罪の判決を受けた。1926年にミッチェルは現役を退き、バージニア州ミドルバーグへ移り、著述や講演を続けた。この時期の研究成果は『空の道(Skyways: A Book on Modern Aeronautics)』(1930)として出版されている。1936年に死去した。

1946年、政府はミッチェルの名誉を回復することを決め、彼を少将に任命した上で議会名誉黄金勲章を授与した。

思想

ミッチェルは航空戦略の研究でいち早く戦略爆撃の重要性を主張したドゥーエから強い影響を受けた。そのため、ミッチェルも戦略爆撃を通じて工場、都市などを叩き、非戦闘員の士気を低下させる戦略を構想した。これにより、第一次世界大戦のような戦争の長期化を食い止める効果が期待された。しかし、ミッチェルに独自の思想は、近接航空支援の方面に見出される。陸上戦力や航空戦力に対する攻撃において航空機が絶大な威力を発揮することが可能であると主張し、例えば戦艦のような主力艦を1隻配備するよりも、多数の航空部隊を配備した方がはるかに合理的であるとミッチェルは主張した。この主張を裏付けるため、ミッチェルは1921年7月にドイツ海軍から捕獲したヘルゴランド級戦艦のオストフリースラントなどを高度10,000フィートから対艦攻撃を実施し、沈没させる効果があることを実験した。

また、ミッチェルの後期の研究にはアメリカの地理的特性を踏まえた考察が数多く見出される。ミッチェルは航空機の時代においてグリーランド、アイスランド、アラスカなどの地域が従来にはない戦略的重要性を帯びてくるはずだと考えた。通信科将校だった時代にアラスカに勤務した経験があったこともあり、ミッチェルはアラスカ、アリューシャン列島がアメリカの国防上、重要な位置を占めることを早期から認識していた。そのため、将来的に予想される対日作戦において航空攻撃のための基地として利用できるとも考えていた。それだけでなく、航空機の性能が向上するにつれて、航空母艦の価値がますます大きくなるという見通しに基づき、日本がいずれ空母でハワイを攻撃する危険があることも予見していた。当時、こうした意見は必ずしも広い支持を集めなかったが、第二次世界大戦で実際に日米が開戦してから、その正しさが認識されるようになった。

主著

ミッチェルの主著としては『空軍による防衛』(1925)が挙げられる。これはミッチェルの航空作戦に対する意見がまとめられており、『戦略論体系』に収録された源田孝訳で読むことができる。同書の解説も理解の助けになる。それ以外のミッチェルの著作の翻訳は見当たらないため、原著の情報も併せて示している。

  • 源田孝、戦略研究学会『戦略論体系11 ミッチェル』芙蓉書房出版、2006年
  • Mitchell, W. 1921. Our Air Force: The Keystone of National Defense. New York: E.P. Dutton.
  • Mitchell, W. 1930. Skyways: A Book on Modern Aeronautics. Philadelphia London, J.B.: Lippincott Company.