カルピニ

カルピニ

ヨハンネス・デ・プラノ・カルピニ(Iohannes de Plano Carpini 1182年? - 1252年8月1日)はヴェネツィア共和国の修道士であり、外交使節としてモンゴル帝国に派遣され、軍事情報の収集に従事した。

イタリア出身。カトリック修道会の修道士としてドイツやスペインで布教していた。カルピニが生きた時代はモンゴル軍がヨーロッパの来襲していた時期に当たり、1241年、モンゴル帝国の西部方面軍の司令官に任命されたバトゥはキエフ大公国を武力で打倒し、さらにハンガリー王国を侵攻していた。1241年にポーランド王国がワールシュタットの戦いで勝利を収め、1245年に東ヨーロッパ防衛の最前線だったハールィチ・ヴォルィーニ大公国をモンゴルの支配下に置いた。相次ぐ敗北を受けてローマ教皇インノケンティウス四世は和平交渉のための外交使節を送ることを決定し、カルピニがその使節団の一員に選ばれた。カルピニは1246年にモンゴル帝国の首都カラコルムへ赴任し、皇帝に即位したばかりのグユクに謁見し、和平交渉を試みた。しかし、対等な和平ではなく、ヨーロッパ諸国を支配下に置きたいと考えたグユクの立場を変えることはできず、交渉は失敗に終わった。カルピニは帰国してからモンゴル帝国の旅行記を執筆し、モンゴルの地理や文化について伝えているが、軍制、武器、戦法についても詳細な報告を記している。

例えば、モンゴル軍はその迅速な攻撃前進を実現させるため、主力が前進する前に先遣隊を現地に潜入させ、情報の収集に当たらせること、あるいは戦場でいったん退却したように見せかけて、実際には主力が戦闘展開を終えている場所に誘導する戦術を得意とすることなどが述べられている。そのため、著作はモンゴルの脅威を軍事的な観点から論じた報告として高く評価されることになり、カルピニはヨーロッパ各地を巡ってモンゴルの実情について講演した。カルピニの著作は翻訳されているため、日本語で読むことができる。

  • 護雅夫訳 『中央アジア・蒙古旅行記―遊牧民族の実情の記録』 講談社学術文庫、2016年