テンペルホフ

テンペルホフ

ゲオルグ・フリードリヒ・フォン・テンペルホフ(Georg Friedrich Ludwig von Tempelhoff, 1737年3月19日 - 1807年7月19日)はプロイセンの陸軍軍人、軍事学者である。七年戦争においてプロイセン陸軍の砲兵戦術の改善を提案したことなどで知られている。

経歴

ブランデンブルクのエーベルスヴァルデ出身。プロイセンの官吏の家に生まれ、ブランデンブルク大学とフリードリヒ大学で数学を学んだ。1756年にプロイセン陸軍に入隊し、七年戦争では砲兵部隊で勤務していたが、1759年に少尉に任官して将校としての階級を得た。軍事史、数学などの研究に従事し、特に弾道学の研究と砲兵戦術の研究で成果を得た。1775年に砲兵戦術に関する著作を書き上げてプロイセン王フリードリヒ二世に高く評価されたが、その軍事的価値から秘密指定されたため、業績が一般に知られることはなかった。しかし、ベルリンの砲兵学校で砲兵科将校に数学、弾道学を教える教官に任じられた。

さらに研究範囲を要塞の築城に広げ、1780年には築城学の著作を記したが、やはり軍事的な価値が大きく秘密指定を受けた。1784年にフリードリヒ二世はテンペルホフの功績を認めて貴族の身分を与えることを決定した。この措置によって将官としての階級を与えられ、砲兵連隊の連隊長に就任することができた。1787年に皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm 1770 - 1840)に数学と軍事学を教える家庭教師を任され、1791年には新設されたベルリンの砲兵学校の校長に任命された。その後もテンペルホフは調査研究を続けているが、七年戦争について論じたヘンリー・ロイドの著作に注目し、その全訳である『ドイツにおける七年戦争史(Geschichte des Siebenjährigen Krieges in Deutschland)』(1785-1801)を出版している。1792年に勃発したフランス革命戦争でも従軍した。ベルリンで死去。

著作

テンペルホフは七年戦争におけるフリードリヒ二世の戦争術に関して、ロイドと論争し、その著作をドイツ語に翻訳して紹介した。ロイドと並び、アントワーヌ・アンリ・ジョミニの軍事思想に影響を及ぼしたとされる研究者の一人である。生前は砲兵戦術に関する業績で評価されていたが、死後に遺稿をもとに出版された『戦争術(Die Krigskunst)』では彼の戦略思想を知ることができる。

  • Tempelhof, G. F. von. 1808. Die Kriegskunst, Zerbst.
  • Lloyd, H. 1785-1801. Geschichte des Siebenjährigen Krieges in Deutschland, Trans. G. F. von Tempelhof. 1-6. Berlin.