シュリーフェン

シュリーフェン

アルフレート・フォン・シュリーフェン(Alfred Graf von Schlieffen, 1833年2月28日 - 1913年1月4日)はドイツの陸軍軍人である。二正面での作戦を強いられるドイツの戦略環境において、開戦と同時に一方の正面で敵を包囲殲滅することを構想した「シュリーフェン・プラン」を構想したことで知られている。

経歴

ベルリン出身。軍人の家に生まれたが、当初は軍人の道に進むつもりはなく、ベルリン大学に入学して法学を専攻していた。1854年に徴兵されて陸軍に入隊し、1年間の兵役に服したが、その際に士官候補生に選抜され、職業として軍人を志すようになった。兵科は騎兵科となり、近衛第2槍騎兵連隊に配属されたが、上官の推薦を得て1858年に陸軍大学校に入学し、優秀な成績で卒業した。1865年に参謀本部地形課で勤務した。1866年に勃発した普墺戦争ではアルプレヒト親王の騎兵軍団の幕僚として従軍し、1870年に勃発した普仏戦争ではメクレンブルク=シュヴェーリン大公の幕僚として従軍した。1876年、近衛第1槍騎兵連隊の連隊長を就任し、1884年まで部隊勤務を続けたが、これが指揮官としての最後の部隊勤務になった。

1884年に参謀本部の戦史課長を務め、1888年に参謀次長に就いた。さらに1891年にヘルムート・フォン・モルトケの後任として参謀総長に選ばれ、ドイツ陸軍としての戦争計画の立案に着手した。1905年、シュリーフェンは「覚書」の中で、将来の戦争様態が短期戦になると予測し、攻勢を重視するドクトリンの研究を進めた。その際に、西部のフランスと東部のロシアに対する二正面作戦を効率的に実施するため、まず西部戦線で包囲殲滅を実施してフランス軍を降伏に追い込み、その後で動員能力に劣るロシアを撃破するという構想を提示した。1905年に健康問題から退役した。ベルリンにて死去。

著作

シュリーフェンの著作に関してはドイツ参謀本部が2巻本の著作集を編纂している。その中で特によく知られているのがカンナエの戦いに関する論稿である(翻訳資料 シュリーフェン「カンナエの戦い」『カンナエ』よりを参照)。陸軍大学校によって日本語にも翻訳されたことがあるが入手困難である。近年では英語の翻訳も出版されているため、入手の容易さからそちらに当たることを推奨する。