戚継光

戚継光

戚継光(Qi Ji-guang, 1528年11月12日 - 1588年1月12日)は明の武将であり、倭寇やモンゴルに対する戦争で多くの軍功を残したことで知られている。中国の軍事学史においては『紀効新書』、『錬兵実紀』、『練兵雑記』などの兵書を書き残した人物としても知られている。

経歴

字は元敬、山東登州の出身。明の初代皇帝である朱元璋の作戦に参加した軍人の家に生まれ、幼少期から兵学を含む学問を修めた。1544年に死去した父の軍務を引継ぎ、17歳の若さで登州衛の指揮僉事に就任した。1548年から1552年にかけてのモンゴル軍の襲来に対する蘇州の防衛戦においても一軍を率いて参加している。

1553年に都指揮僉事に就任し、山東で倭寇の討伐を任された。明軍中央の書類では30,000名の部隊を指揮することになっていたが、実際に現地に到着してみると部隊は定員割れしており、10,000名にも満たない状況であり、規律、訓練も欠けていた。そのため、戚は部隊を訓練し直すところから取り組まなければならなかった。その成果は1555年に倭寇が襲来した浙江の戦闘で戚の部隊が投入された際に大いに発揮され、1558年の岑港の戦いで決定的な勝利を収めた。その後も明軍において部隊の再建に尽力し、その成果は『紀効新書』として書き残されている。1562年には倭寇の拠点があった福建に侵攻したが、この戦闘で多大な損害を被ったためにいったん退却した。1563年に再度侵攻し、福建を明軍の支配下に置くことに成功した。その後も戦争は1567年まで続いたが、その一連の戦闘によって倭寇の脅威は大幅に緩和された。

1567年に北京に招集され、明軍の中で皇帝に直属する禁軍に異動となった。禁軍は五軍営、三千営、神機営の3個の部隊から編成されていたが、戚は火槍や火砲などの火器を運用する神機営の副将に任命された。さらに、1568年には北上して薊州、昌平、保定の防衛を担う総兵に就任し、部隊の訓練に貢献するだけでなく、北方から及んでいたモンゴルに対する脅威に対して防備を固めた。1571年に明はモンゴルと和平を結んだために、国境に一応の安定が確保されたかと思われたが、和平を取り交わしていない別のモンゴル人の勢力が襲来してきたため、戚が準備してきた防備は有効に機能した。戚はモンゴル人の攻撃に対処するためにも、長城の整備が重要であると考え、特に監視塔の建設を進めさせた。これによって遠隔地まで警戒監視が可能になり、防衛の体制はますます充実された。

1572年の冬に戚は100,000名が参加する大規模な演習の指揮をとり、その記録を『練兵実記』として書き残した。その後も軍務を続けたが、1583年に軍務を退き、病気によって命を落とした。

著作

主著の『紀効新書』は当時の明軍の戦法、装備、陣形、訓練などを詳細に記した文献であり、中国で高く評価されただけでなく、後に朝鮮でも教範として採用された経緯がある。倭寇の討伐のために、軍隊をどのように組織し、訓練し、運用するかを明らかにすることがその狙いである。注目すべきは火器の運用に関するもので、戚は銃の火薬を調合するために、硝石、硫黄、柳炭をどのように調合すべきかを同書で述べている。また火砲の運用に関する記述も多く、全体として戚が戦闘における火力の効果を最大限に発揮しようと試行錯誤していたことが伺われる内容である。

それまでの中国の兵書でこれほど詳細かつ正確に火器の操作や部隊としての運用について述べているものは見当たらず、その意味で画期的な業績だといえる。後世においてもその評価は非常に高く、蒋介石は『孫子』以降の中国の軍事学史において最も優れた業績であると評価した。

著作は日本語に翻訳されていないが、オンラインで読むことは可能である。