ナポレオンのロシア遠征が失敗した理由がクラウゼヴィッツに指摘されている

ナポレオンのロシア遠征が失敗した理由がクラウゼヴィッツに指摘されている

2020年6月14日

はじめに

19世紀のプロイセンで活躍した軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは『戦争論』の著者として有名ですが、それ以外にも自分が参加したナポレオン戦争に関する論考も残しています。その中に「ナポレオンのロシア遠征」があり、これは日本語に翻訳されています(クラウゼヴィッツ『クラウゼヴィッツのナポレオン戦争従軍記』金森誠也訳、ビイング・ネット・プレス、2008年)。

1812年に皇帝ナポレオンがフランス軍を率いてロシアに侵攻してきた際には、プロイセン軍を離れ、ロシア軍に身を投じて戦っていました。1812年9月5日のボロジノの戦いに参加したときには、負傷者としてモスクワに退却したこともあります。

フランス軍はモスクワの占領に成功したものの、あまりにも消耗が大きく、ロシア軍の追撃を受けながら退却することを余儀なくされました。クラウゼヴィッツは当時のナポレオンの戦略を検討した上で、それが失敗に終わった理由を二つ指摘しているので、今回の記事ではそれらを紹介してみたいと思います。

ナポレオンの戦略の特徴とその第一の敗因とは何か

クラウゼヴィッツはナポレオンの戦略思想はギャンブルに近いものだと考えていました。つまり、いつでも決戦で決定的勝利を収めることを追い求め、そのために非常に大きな軍事的リスクをとることを厭わなかったのです。

「まず決定的な打撃を与え、それによって得た戦果を次の新しい決定的な打撃を与える際に活用する、このように獲得した利益を絶えずくりかえし、一枚のトランプのカードを賭け、最後には胴元の金を全部さらっていく、これが彼のやり口であった」(クラウゼヴィッツ『ナポレオン戦争従軍記』113頁)

クラウゼヴィッツはこのような戦略思想を批判しているわけではなく、これがロシア遠征におけるナポレオンの考え方の大前提にあったことを理解する必要があると述べています。1812年のロシア戦役に際しても、ナポレオンは短期決戦を追求しようとしており、だいたい2回程度の戦闘で決着をつけようとしていたのではないかとクラウゼヴィッツは述べています(同上)。

したがって、ナポレオンがモスクワを目指してロシア軍に決定的な一撃を加えようとしたこと自体はまったくもって理解できることだと認めています(同上、114頁)。ここでナポレオンが戦略家が決めるべきは、いつ、どれだけの兵力で、どのようにモスクワを攻略すべきかです。

クラウゼヴィッツがナポレオンの敗因と見なしているのは、この決断を誤ったためだと考えました。モスクワ占領を目標にしたこと自体が問題だったというよりも、モスクワで腰を据えてロシア軍と戦えるだけの兵力を集中しなかったことが問題だったとされています。当時、ナポレオンは9万名の兵力でモスクワを占領しました。しかし、クラウゼヴィッツはこれはあまりにも少ないとして、フランス軍の所要兵力は20万名程度と見積もっています(同上、115頁)。

「20万の兵力をロシア帝国の中心部に展開し、断固として軍の士気を維持し、ひいては平和を招来することができたかどうかは、もちろん疑わしい。そうは言っても、こうした成果を予測することは、事態の発生以前には許されるであろう。ロシア軍がモスクワを離脱し、同市に放火し、これにより全面戦争を導入したことを、確実に予測できなかったとしても、こうした事態はまったくあり得ないことではなかった。だがいったんそれが起こってしまうと、いかに作戦を展開しようと、戦争全体がナポレオンにとって不幸な結果となってしまったのだ」(同上、116頁)

このクラウゼヴィッツの議論は、単純に兵力の優越さえ確保していれば、戦局がナポレオンの思い通りになったという意味で理解すべきではありません。ロシア軍が組織的な戦闘力を回復する可能性を残しているにもかかわらず、所要を満たさない兵力でモスクワを占領したため、それを長期的に占領し続けることが難しかったとクラウゼヴィッツは説明しています。

第二に、ナポレオンは後方の備えを疎かにしていた

モスクワを保持できなかったことに加えて、クラウゼヴィッツはナポレオンが後方を軽視したことが、退却の混乱を招いたと批判しています。もしモスクワを占領したフランス軍の後方に相応の準備があれば、退却戦であれほどの損害を受けることは避けられたはずだと指摘されています(同上)。

クラウゼヴィッツの見積によれば、モスクワに進撃する前の段階でヴィルナ、ミンスク、ポロツク、ヴィテブスク、スモレンスクを占領し、適切に築城して5000名程度の守備隊を配備すれば、退却する軍の収容陣地として、また前進する軍に兵站支援を与える基地として、役立てることができたはずです(同上)。

クラウゼヴィッツは11月にコサック兵がスモレンスクを奪回した際に、現地に700頭の牛しか残されていなかったことを回想しています(同上)。支援すべき部隊の規模に対し、フランス軍の後方能力がかなり貧弱だったようです。

「もし彼(ナポレオン)がもっと慎重に事を運び、軍の補給をもっと秩序正しく遂行し、行軍に際してもっと優れた調整をはかり、とくに不必要に巨大な数の兵員を一本の道路に無理に押し込むようなことをしなかったならば、当初から、恒常的な食糧不足に苦しむことなく軍団をもっと完全な姿で維持できたであろう」(同上)

それでは、これら二つの敗因を排除した作戦計画はどのようなものになったのでしょうか。クラウゼヴィッツは代替案として、スモレンスクの占領でいったん進軍を停止させ、占領地の整備と側面の掩護、さらに後方における基地の確立に注力する作戦を提案しています(同上、117頁)。このような作戦計画であれば、ドニエプル川、ダウガヴァ川の線を防衛線とし、フランス軍はロシアで越冬することになります。

もしロシアで越冬するとなれば、ロシア軍は必ず態勢を立て直し、フランス軍が宿営する都市に対して攻撃を加えてきたでしょう。これはナポレオンの戦略思想にとって望ましくない状況です。雪の中で終わりの見えない消耗戦が各地で繰り広げられ、コサック兵の襲撃で各都市の連絡は寸断されたかもしれません。それでも、フランス軍は各部隊が陣地に立てこもって防御することができます。

クラウゼヴィッツの説によれば、モスクワを攻略するのであれば、フランス軍は十分な兵力を集中すべきであり、そのためには兵站支援を確立して越冬を考えなければなりません。もし部隊に欠員が続出し、補充兵が必要になるようならば、ポーランドで大規模に徴兵することも検討すべきだっただろうとも述べられています。

むすびにかえて

クラウゼヴィッツは自身の案が絶対に成功を約束できるものではないと認めていますが、それでもナポレオンがロシア遠征で失敗した大きな二つの要因を除去できており、成功の確率は多少は改善されていると主張しています(同上、119-20頁)。

ただ、ナポレオンの司令官としての性格特性を考えれば、このような作戦計画が採用される可能性はなかっただろうとも述べており、戦略・作戦というものが司令官の思想、あるいは性格によって規定されることを示唆しています。