冷戦

冷戦(Cold War)は第二次世界大戦終結後から1991年まで続いたアメリカとソ連の直接的な武力攻撃を伴わない対立状態である。互いに核戦力を持つ大国間で危機拡大と緊張緩和が繰り返され、数多くの秘密作戦や代理戦争が遂行されたために、軍事思想に大きな変化が生じた時代である。

概要

冷戦という言葉は政治評論家ウォルター・リップマンが1948年にアメリカとソビエトの外交関係を表現するために使い始めたものである。アメリカとソ連は第二次世界大戦でドイツを東西から挟撃したが、ドイツという共通の敵を失うと、その利害の対立が表面化し、1991年にソ連が崩壊するまでにらみ合いが続いた。

まず、第二次世界大戦の戦禍で荒廃したヨーロッパ諸国を復興していた時期に、アメリカとソ連はそれぞれ経済的援助で自陣営の拡大を競い合い始めた。アメリカはマーシャル・プランで西ドイツ以西のヨーロッパの経済再建を支援し、ソ連はコミンフォルムを結成して東ドイツ以東の取り込みを図った。その結果、ヨーロッパ大陸は東西ドイツ国境に沿って東西に分断されることになった。アメリカは1949年に北大西洋条約機構(NATO)を創設して西ヨーロッパを軍事的に勢力圏に組み入れ、ソ連は経済相互援助会議(COMECON)で東ヨーロッパに対する統制を強化した。

ヨーロッパと同様の動きは他の地域でも広がっており、東アジアでは朝鮮半島の北部の北朝鮮や中国がソ連と、南部の韓国や日本がアメリカと関係を強化していた。中国はもともとアメリカが支援する国民党が政権を掌握していたが、1946年から1949年にかけての国共内戦で共産党に政権を奪われ、政府は台湾に逃れていた。1950年に北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が勃発するとアメリカは武力で北朝鮮に反攻したが、中国が介入したことで戦局は膠着した。こうしたアジアにおける戦局を踏まえ、1955年にソ連はワルシャワ条約機構を創設し、アメリカは西ドイツをNATOに加盟させ、それぞれ防衛態勢を強化した。

同年のジュネーヴ巨頭会議で米英仏ソの首脳会談が実現したことで一時的に緊張は緩和したが、1957年にソ連がロケット技術の研究開発を推進し、世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、米ソ間は再び緊張状態に入った。これ以降、米ソ間で宇宙開発を建前にしたミサイル開発競争が起こり、核弾頭を搭載した弾道ミサイルが軍事情勢の安定化にとって決定的な意味を持つことが認識された。1962年のキューバ危機では米ソ間で核戦争が勃発する危険が生じたが、米ソ首脳間で直通のホットラインが設置され、危機管理の体制が整えられる契機になった。

アメリカは1965年からベトナム戦争への関与を強め、南ベトナムを援助したが、この際にも北ベトナムの背後にいるソ連、中国との危機を避けることが優先された。アメリカは軍事顧問団と称して南ベトナムに部隊を派遣し始め、それは次第に本格的な空爆へと拡大していったが、北ベトナムは大きな損害を負いつつも南ベトナムとの統一を目指して戦い続けた。ベトナムで事態が動いている間に中ソ関係が悪化し、1969年には国境地帯で武力衝突が勃発したが、これは米中接近の要因になった。

1971年に米中国交回復が始まったことは当時の世界で大きな衝撃をもって受け止められた。ソ連はアメリカとの緊張を緩和するため、1972年に第1次戦略兵器制限交渉を締結し、核兵器の軍備管理を推進した。その間にアメリカは世論の反発が強かったベトナム戦争から撤兵する方針を決定し、1973年に和平協定が成立すると完全に撤兵した。アメリカの援助を失った南ベトナムは北ベトナムに滅ぼされ、1975年にベトナムは統一された。さらにアメリカは中国との関係を強化するために台湾からも撤兵し、1979年に国交を断絶した。

米中国交正常化が実現した1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、アメリカはソ連に対して巻き返しを図って軍事的対応をとった。1981年にアメリカは戦略防衛構想と呼ばれる計画を発表し、ソ連が弾道ミサイルで核攻撃を仕掛けたとしても、それらを撃墜するシステムを開発する意向を示した。これ以外にもソ連に対してアメリカは全世界的に軍事態勢を増強し、特にヨーロッパにおいてはエアランド・バトルと呼称されるドクトリンを採用し、ソ連軍の侵攻に備えた。この時期のアメリカは情報技術においてソ連に対して優位に立っており、情報通信技術や精密誘導兵器などの質的優勢でソ連軍の数的優勢を相殺しようとした。

1985年にソ連の国内では経済的、社会的問題を抱えており、西側との貿易が必要なだけでなく、アメリカが推し進める軍備拡張に追随することが財政的に難しかった。ソ連は改めてアメリカとの緊張緩和に動き、同時に国内でも改革路線を打ち出した。これはソ連国内だけでなく、それまでソ連の下で統制されてきた東ヨーロッパ諸国で政治的動揺が広がることを招いた。1989年に東ヨーロッパ諸国は次々と民主化し始め、国際社会におけるソ連の指導力は大きく低下した。同年に米ソ首脳会談が実施され、冷戦終結が宣言されたが、1991年にソ連は国内の政変がきっかけとなって崩壊した。

米ソ冷戦の歴史に関しては依然として不明な点が多く、研究者の評価も定まっていないが、例えば歴史学者のギャディスはアメリカとソ連という二大国が世界を二分したことにより、第三勢力の出現が妨げられ、長期にわたって国際平和が維持された可能性を指摘している。核戦略論、限定戦争、民間防衛、危機管理、強制外交、平和維持など、この時代に研究が進んだ軍事学の領域は多岐にわたっている。

参考文献

  • Gaddis, J. L. 2005. The Cold War: A New History. Penguin.(邦訳『冷戦:その歴史と問題点』河合秀和、鈴木健人訳、彩流社、2007年)
  • Tucker, S. C. 2007. The Encyclopedia of the Cold War: A Political, Social, and Military History. Abc-Clio.