ヴィリゼン

ヴィリゼン

カール・ヴィルヘルム・フォン・ヴィリゼン(Karl Wilhelm Freiherr von Willisen, 1790年4月30日 - 1879年2月25日)はプロイセンの陸軍軍人である。

経歴

プロイセンのシュタッスフルト(Staßfurt)出身。シュタッスフルト市長カール・ヴィルヘルム・ヘルマン・フォン・ヴィルセン(1751–1807)の三男として生まれる。士官候補生としての教育を受け、ナポレオン戦争が勃発した1804年にプロイセン陸軍の第21歩兵連隊に入隊した。1806年にフランス軍とプロイセン軍がアウエルシュタットで交戦した際に、重傷を負ってしまい、1807年にプロイセン軍をいったん除隊している。短期間だがハレ大学で学業に励み、1809年にオーストリア軍に身を投じ、同年のヴァグラムの戦いに参加した。その後、オーストリアとフランスとの間で講和が成立すると、休暇を取得したが、帰隊しなかったために脱走の罪を問われ、1811年に逮捕され、ケッセルで投獄された。正式に釈放された後でプロイセンに帰国し、そこで再び軍務に就いた。

新しい仕事はシュレージエン軍の参謀であり、ナポレオン戦争の末期に当たる1815年にはプロイセン軍の総司令官ブリュッヘルの下で参謀として勤務した。戦後、プロイセンの参謀本部に留まることを決め、陸軍大学校で戦争術と軍事史を教え、研究にも取り組んだ。陸軍大学校の校長だったカール・フォン・クラウゼヴィッツとも議論を交わしている。1832年には第三軍団の参謀、第五軍団の参謀長を歴任し、1843年にブレスラウで旅団長となった。さらに1848年にヨーロッパ各地で広がった民主化運動「諸国民の春」が起きた際には、プロイセン王からポーランド民族運動を鎮圧するための交渉を担当する特使を務めたが、成果を上げることができず解任された。その後も外交の仕事は続き、第一次イタリア独立戦争(1849)では軍事顧問として現地に派遣された。1849年にはプロイセン軍を退き、ドイツ連邦軍の最高司令官に就任した。しかし、1850年に勃発した第一次シュレースヴィッヒ=ホルシュタイン戦争で敗北の責任をとるため、その職も辞することになった。デッサウにて死去。

著作

主著は『大戦争の理論(Die Theorie des großen Krieges)』であり、「戦略とは連絡線を作る技術であり、(中略)戦闘を遂行する技術は戦術である」という観点から戦略と戦術を区別している。学問的立場はジョミニの学説に傾倒していた。ベルリン要塞化構想には反対し、地理的特性を考慮すれば、ベルリンを防御するための要塞建設が非合理的であることを主張したことでも知られている。陣地に依拠した防衛ではなく、国土の縦深を利用した機動による防衛を考慮するように主張した。

  • Willisen, Wilhelm von. 1840. Die Theorie des großen Krieges, 3 vols. 2nd edn, Berlin: Duncker und Humblot, 1868.(GoogleBooksでの該当ページへのリンク
  • Willisen, Wilhelm von. 1860. Ueber große Landes-Vertheidigung, oder über Festungsbau und Heer-Bildung in Preußen. Berlin: Duncker und Humblot.