クラウゼヴィッツとジョミニが語る兵站の発達

クラウゼヴィッツとジョミニが語る兵站の発達

2020年3月21日投稿

はじめに

兵站とは、一般に部隊の戦闘力を維持増進して作戦を支援する機能であって、補給、整備、回収、交通、衛生、建設、不動産および労務、役務等を総称して使われている用語です。言い換えれば、兵站は軍隊のあらゆる行動を支援するために必要な活動をすべて包括する概念であることが分かります。

兵站の重要性が広く認識されるようになった時期は18世紀末から19世紀の初頭であり、フランス革命戦争・ナポレオン戦争の時期に当たります。これらの戦争において兵站は質、量ともに著しく発達し、戦争の行方を左右するようになりました。

今回の記事では、近代戦における兵站の発達を考えるため、19世紀の軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツアントワーヌ・アンリ・ジョミニの学説を紹介してみたいと思います。

軍隊の兵站を発達させた政治的背景について

クラウゼヴィッツの研究の特徴は、政治的、社会的背景を踏まえて戦争の特性を考察することろにあります。兵站の発達について考える際にもクラウゼヴィッツはヨーロッパの政治情勢の変化に着目しました。

18世紀末にヨーロッパの列強だったフランス、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンはいずれも君主制を採用する国であり、その軍隊の士官貴族階級で、下士官や兵卒を傭兵によって構成していました。

しかし、1789年にフランス革命が起こり、フランスで君主制が廃止され、代わって共和制が確立されると、より大規模かつ長期的に一般民衆を軍隊に動員することが可能になりました。この軍隊の大規模化が兵站の発達に重要な影響を及ぼしていたとクラウゼヴィッツは見ています。

「軍の給養は、近代の戦争においては往時に比して遥かに重要な事項になった。しかもそれは二件の理由による。第一は、一般に近代の軍は、兵数において中世の軍はもとより古代の軍に比してすら著しく巨大になったということである。なるほど往時にも兵数が近代の軍に匹敵し、或はこれを凌駕するような軍の現れたこともある。しかしそれは極めて稀有な一時的現象にすぎなかった」(クラウゼヴィッツ、中巻、216頁)

さらにクラウゼヴィッツは戦争で使用される軍隊の規模が大規模化しただけでなく、その活動の形態にも変化があったと考えています。というのも、近代以降の軍隊は戦地でますます広域的、連続的に行動するようになり、兵站支援もそれに応じて常続的なものでなければならなくなったためです。

「第二の理由は、これよりも遥かに重要でありまた近代に特有のものである、即ち近代の戦争における軍事的行動は、以前に比して遥かに緊密な内的連関を保ち、また戦争の遂行に当たる戦闘力は不断に戦闘の準備を整えているということである。往昔の戦争の大方は、互に連絡のない孤立した戦闘から成り、またこれらの戦闘は、中間の休止によって分離されていた。そしてかかる休止期には、戦争もまた実際に休止し、政治的意味においてのみ存在するか、さもなければ彼我の軍は互に隔絶していたので、いずれも相手の軍に頓着することなく、もっぱら自軍の必要を充たすのに汲々としていた」(同上)

この変化についても、クラウゼヴィッツはヨーロッパにおける政治制度の変化と関連付けて理解することができると考えました。

中世以前のヨーロッパの軍隊は、いずれも封建制度によって維持されていました。つまり戦地に動員される軍人は国王から領地を与えらえた領主であり、彼らは従軍する間は糧食や装備などを自己の負担で確保することが期待されていたのです。それは国王から与えられた領地で得られる収益の代償と見なされていたためでした。

クラウゼヴィッツは別の箇所で封建的な軍事制度が廃止され、絶対王政の下で中央政府の力が拡大するようになると、政府は自らの責任として軍隊の兵站支援を充実させるようになり、軍事行動は円滑に行われるようになったと指摘しています。つまり、戦地で活動する軍隊の兵站支援を国家として担当する必要がでてきたのです。

一部で始まった兵站組織の近代化は他国での改革を促すことになり、結果として近代以降のヨーロッパで勃発した戦争では、最小限の休止期間で軍隊が活動することができるようになったと考えられています(同上、218頁)。

野戦軍の戦略機動を可能にした兵站組織の拡大

ジョミニの視点はクラウゼヴィッツのそれとは異なっています。ジョミニは政治的、社会的な背景について着目するのではなく、軍隊の兵站組織の発達そのものに注目し、それがどのような形態へと発達していたのかを記述しました。

ジョミニの見解によれば、兵站の最も重要な要素は、軍隊をある地点から別の地点へ移動させるため、行進を計画し、部隊を宿営させることですが、部隊が基地から遠くに離れて移動するほど、後方支援が難しくなります。

したがって、作戦線を良好に維持することが兵站において非常に重大な問題であり、これを維持するために規則正しく補給処を設置する技術が発達しました(Jomini 1862: 262)。これがジョミニの考える近代戦における兵站の重要な特徴です。

ナポレオン戦争における主要な補給処は、多数の部隊の給養に適した集落内部に開設されることが一般的でした。集落であれば、糧食や被服を集積するための倉庫を確保できるだけでなく、部隊が宿営するための施設も利用できます。

しかし、集落の位置に限定して補給処を置くと、部隊の機動がその位置によって制限されてしまいます。そこで、集落の外部、およそ15マイルから30マイルほど離れた地点に二次的な補給処を開設し、どの方向に対してでも部隊を支援することができる態勢をとっていたとジョミニは説明しています(Ibid.)。

補給処には、それぞれに守備隊が配備されており、周囲の郵便や交通に関する施設が適切に機能するように警戒し、作戦線を掩護する役割も担っていました(Ibid.: 263)。

これらの部隊は戦域の後方に配備されているため、直ちに戦闘任務に従事するわけではありませんが、ジョミニは緊急事態の際には戦略予備として戦闘任務に使用される場合があったと論じています(Ibid.)。

むすびにかえて

クラウゼヴィッツとジョミニは、いずれも兵站だけを専門に論述した著作を残してはいません。ただ、いずれもフランス革命戦争・ナポレオン戦争の最中に起きた兵站の近代化に一定の注意を払っており、それぞれ異なる視点をとりながらも、その変化を研究の対象としていました。これは近代戦において兵站組織の充実が図られた第一歩であり、その後の兵站の歴史を理解する上でも重要な意味があります。

現在でも兵站学の研究は戦略学、戦術学に比べて相対的に数が少ないため、19世紀初頭に起きた兵站の近代化については依然として多くの不明点が残されています。しかし、ファン・クレフェルトの『補給戦(Supplying War)』(1977)はこの時代をカバーした代表的な兵站学の研究であり、戦略よりも兵站の方が戦争の推移を強く規定していたことが主張されています。

ただ、ファン・クレフェルトの研究は理論的な分析が欠けているため、エクルズ(Henry Effingham Eccles)の古典的な著作『国防における兵站(Logistics in National Defense)』(1959)や、クレス(Moshe Kress)の新しい著作『作戦兵站(Operational Logistics)』(2002)の議論を参照すると有益でしょう。

エクルズとクレスはいずれも兵站支援が発達するにつれて、戦闘部隊に対する後方支援部隊の比率が増大する傾向があることについて考察しており、現在では後方支援部隊の規模が戦闘部隊の任務遂行を妨げるまで肥大化する恐れがあることが知られており、その防止策などが研究されています。

武内和人(Twitterアカウントnoteアカウント