テイラー

テイラー

マクスウェル・ダヴェンポート・テイラー(Maxwell Davenport Taylor, 1901年8月26日 - 1987年4月19日)はアメリカの陸軍軍人である。軍事学史においてはアメリカ軍の新戦略として柔軟反応(flexible response)を唱えたことで知られている。

経歴

ミズーリ州キーテスビル出身。1922年にウェストポイントの陸軍士官学校を卒業し、工兵学校へ進んだ。メリーランド、ハワイなどでの部隊勤務を経て1926年に野戦砲兵科に転科し、1927年にフランス語を勉強するためにパリへ赴任した。1928年から陸軍士官学校でフランス語とスペイン語を教え、1932年に砲兵学校で学んだ。1935年に指揮幕僚学校を卒業してから日本語を学ぶためにアメリカの駐在武官として東京に赴任し、1937年に短期間だが北京にも赴任していた。

第二次世界大戦が勃発した1939年当時は陸軍大学校に在籍したが、1940年に第2歩兵師団第12野戦砲兵大隊で大隊長の職務を経験しており、アメリカが参戦した1941年に参謀本部に補佐官として勤務していた。間もなく第82歩兵師団の司令部に参謀長として配属されたが、この部隊は間もなく第82空挺師団に改組された。テイラーは北アフリカ戦線で従軍し、地中海戦役に参加した。空挺作戦の経験が見込まれて第101空挺師団の師団長に就任し、1944年にノルマンディーに空挺降下し、フランスでの作戦の指揮をとった。アルデンヌでドイツ軍が攻勢をとった際にはアメリカに帰国していたため、作戦の指揮をとることができなかった。

戦後は陸軍士官学校の校長に就任し、1949年にヨーロッパに戻って連合軍総司令官を務めた。1951年に陸軍参謀副長に就任したが、1953年に第8軍司令官として朝鮮戦争に従軍し、1955年には陸軍参謀総長の地位を引き受けた。その後、テイラーは核時代のアメリカ陸軍の態勢を抜本的に見直す改革に取り組んだが、アイゼンハワー政権が採用した大量報復という戦略構想が、あまりにも核兵器に依存していると反対した。現役を退き、著作『定かならぬトランペットの響き(The Uncertain Trumpet)』(1959)で柔軟反応を提案した。1960年の大統領選挙で民主党候補だったジョン・F・ケネディの目に留まり、1961年にケネディ政権が発足するとテイラーは政権の軍事顧問となった。

ケネディはテイラーを現役に復帰させるだけでなく、1962年に統合参謀本部議長に抜擢した。1964年に再び現役を退いた。ジョンソン政権特別顧問も務めている。1966年には防衛分析研究所所長に就任し、1969年にはすべての公職から退いた。ワシントンDCにて死去。

思想

テイラーの著作『定かならぬトランペットの響き(The Uncertain Trumpet)』(1959)は、アイゼンハワー政権の大量報復を批判し、柔軟反応と呼ばれる戦略構想を打ち出した研究として位置付けられる。自身の説明によれば、柔軟反応とは「あらゆる可能な挑戦の様態に対して報復行動をとる能力を持たなければならないという考え方」であり、全面戦争から限定戦争に至るまで、あらゆる烈度の紛争に対しても柔軟に反応することが目指されている。

戦略核兵器の意義を認めつつも、その効果は全面戦争に制限されるため、戦術核兵器のみを使用する限定核戦争や、核兵器を使用しない限定戦争に対応するため、さまざまな兵器をバランスよく整備し、海外に配備しておくことが戦略的に重要だと論じた。テイラーの説はケネディ政権の国防政策、戦略計画に与えた影響が大きく、また冷戦期の軍事学の研究経緯において重要な意味があり、特に相手の行動に応じて反撃目標を注意深く選定するという危機管理の発想も、この戦略思想に依拠するところが大きい。

著作

主著である『不確かなトランペット(The Uncertain Trumpet)』(1960)は古書で入手が可能である。ちなみに、表題は新約聖書の「もしラッパが高らかに鳴り響かなければ、誰が戦闘を準備するだろうか」という趣旨の記述に基づく。新たな軍事情勢の到来に備えるため、政府がとる戦略を内外にはっきり示す必要を主張すべきという著者の主張を反映している。