近代戦争における防御方法を考察したドイツ軍人レープによる機動防御の構想

近代戦争における防御方法を考察したドイツ軍人レープによる機動防御の構想

2020年10月29日

第一次世界大戦ドイツ陸軍軍人であるヴィルヘルム・フォン・レープ(Wilhelm Josef Franz Ritter von Leeb)は『防御』(1938)という著作で近代戦における防御のあり方を考察しています。これはドイツ軍の兵務局で発行されていた『軍事科学評論(Militärwissenschaftliche Rundschau)』に掲載していた原稿をまとめた専門書であり、第二次世界大戦の最中に海外でも翻訳されています。

レープが注目していたのは第一次世界大戦で開発された戦車、車両、航空機などの装備であり、これらを使用すれば部隊の機動性が高まり、戦闘の様相を陣地戦から機動戦に転換できると考えられていました。このことは、攻撃の方が防御より有利であるという考え方にも繋がりましたが、レープはそのような解釈に反論し、機動戦に適した防御の方法を模索することで、十分に防御の利点を生かすことができると主張した人物です。

陣地戦から機動戦への移行に適合した防御形態の模索

レープの研究は、防御それ自体は攻撃よりも強力な戦闘の形態であることを大前提に置いていました。これは19世紀のプロイセン陸軍軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツが『戦争論』で述べた命題であり、敵と味方の戦力がまったく等しい場合を想定すると、戦闘では攻撃を加える側が防御に回る側よりも常に不利になると考えられていました。

防御する部隊は地形の偵察、陣地の構築、弾薬の集積、部隊の給養、戦闘の準備などの措置を敵が戦場に現れる前に完了させることが可能です。また、防御はすでに確保した地域を保持することが目的ですが、攻撃は敵が占領している地域を奪い取らなければなりません。これらの事情を踏まえれば、防御それ自体は攻撃より有利であることは明らかだと言えます。

しかし、これは防御の一般的な利点を述べたものであり、防御戦闘を有利に遂行するためには、時機、地域、装備などの特性を考慮に入れる必要があります。レープは第一次世界大戦の経験を踏まえて、望ましい防御戦闘の形態や方法が大きく変化したことを認識していました。戦車や航空機が開発されたことによって、敵と味方の部隊の移動がより迅速になったためです。

「あらゆる機械化された装備は戦争の遂行を支配する二つの根本要素、すなわち移動を大幅に速くし、また交戦を大幅に長くする。移動の速さと交戦の長さは、作戦の手段としての航空部隊、機甲部隊、機械化部隊の重要性を高める。なぜなら、突破機動、側面に対する迂回機動、逆襲、ある前線から別の前線への部隊移動など、特定の場所を決めて、そこに兵力を集中することを可能にする」

ただし、航空部隊、機甲部隊、機械化部隊の登場によって、第一次世界大戦以降においては攻撃が防御より有利になったという見方にレープは同意しません。例えば、航空機で航空偵察が可能になったことにより、敵の攻撃準備を以前よりも早期に察知すれば、防御戦闘の優位は大幅に強化されると述べています。また、最前線に絶えず機甲部隊、機械化部隊を配置するのではなく、後方地域に拘置しておき、敵の攻撃の重点に対して機動的に予備を運用できれば、防御戦闘でも十分に活用できるとも論じられています。

「防御部隊が予備、十分な鉄道網、車両、機甲部隊を運用できる場合は、前線に生じた間隙を短時間で、時としては数時間で埋めることができた。こうして防御部隊は新戦力で新しい前線を構築できたのである。(中略)今日においては、苦戦している防御部隊は何百キロメートルも離れた地点にいる味方の部隊を呼び寄せることができる」

レープの議論によれば、将来の戦闘の形態が陣地戦から機動戦に変化したとしても、一概に攻撃が防御より有利になったわけではありません。機動戦における防御では縦深を大きく確保し、予備として使用する兵力を敵の動きに応じて柔軟に運用することができなければなりません。このために航空部隊、機甲部隊、機械化部隊を活用することができれば、機動戦における防御は実行可能であるとレープは主張していました。

攻撃的なドクトリンの採用に反対していたレープ

レープは1938年のドイツを取り巻く軍事情勢を踏まえれば、ドイツ軍が将来の戦争で数的な優勢を期することはとても不可能であり、消耗が激しい攻撃よりも、消耗を抑えながら敵に損害を与える防御の方が、より重要になると考えていました。このことは著作『防御』で述べられており、もし戦機を捉えて防御から攻撃に転じる状況が起きたとしても、まずは防御で成功し、敵と味方との数的な優劣を挽回しなければならないと論じられています。

戦間期のドイツでこのような議論を展開することは政治的にリスクがあることでした。1933年に政権を掌握したアドルフ・ヒトラーは自らが構想する戦争計画に反対する軍人を遠ざけ、あるいは解任していたためです。レープ自身も1938年に粛清で予備役に編入されており、1939年に西部の守りを固めるために現役に復帰し、1941年に始まった独ソ戦にも参加していますが、1942年には現役から完全に退いています。

むすびにかえて

レープが発表した研究成果は『防御』を除くと他に見当たりません。現役を退いたレープはあまり学問的な著作を残しておらず、自伝的な著作として『二度の世界大戦と日誌と状況判断(Tagebuchaufzeichnungen und Lagebeurteilungen aus zwei Weltkriegen)』が残されているだけです。こちらの著作は1918年から1919年と、1939年から1942年の経験をもとにしたレープの回顧録であり、1976年に出版されています。

レープの著作がアメリカで初めて翻訳されたのはレープが解任された翌年の1943年でした。この著作の評価が高まった時期にレープはすでに第一線から退いていたことになります。翻訳者はオーストリア出身の研究者だったステファン・ポッソニー(Stefan T. Possony)とダニエル・ヴィルフロイ(Daniel Vilfroy)であり、ポッソニーについてはウィーン大学で経済学を修め、1940年にアメリカに渡った研究者であり、冷戦以降はフーバー研究所(Hoover Institution)に籍を置き、アメリカの対ソ戦略に関する調査研究に取り組んでいます。

武内和人(Twitterアカウントnoteアカウント