『孫子』

『孫子』の思想

孫武の著作『孫子』が成立した経緯については、さまざまな学説がある。しかし、三国時代に魏の曹操が注釈を加えるまでには、すでに中国において古典的兵書としての地位を確立していたと考えられる。以下では、『孫子』の時代背景について触れた上で、その基本的な内容について概観し、軍事思想としての特徴を簡単にまとめておく。内容は随時追加、更新する予定である。

時代背景

中国では春秋時代から戦国時代にかけて戦法が大きく変化した。それまで平地で馬に曳かせた戦車に乗り、弓矢で戦う方式が一般的だったが、集団になった歩兵が戦う方式に移行していった。考古学的な調査によって、強固な防壁を備える都市が増加し始めた時期とも指摘されている。また孫武が仕えたとされる呉では水路が縦横に走っており、大量の戦車が展開するには不向きだったことも、歩兵の意義を大きくした可能性がある。これらの要因が総合した結果、中国における戦争において歩兵の運用が重視されるようになり、緻密な駆け引きを駆使する兵法が発展することになった。孫武の軍事思想は、このような時代背景、地域特性から出てきたものと推測することができる。

基本内容

ここでは孫武の軍事思想が『孫子』でどのようにまとめられているのかを紹介する。『孫子』は全部で13篇に区分され、全体で6000字程度の短い文献である。各篇の要点を列挙すると次の通りである。

  • 計篇(始計篇)は、戦争を始める前に国家として検討すべき事項、準備すべき事項について説明しており、彼我の国力の優劣を包括的に比較考慮し、我が国が劣勢であるならば、決して軽々に開戦すべきではないと戒めている。
  • 作戦篇は、戦争計画について説明している。戦争では人的資源、物的資源の損失は莫大なものになり、それは国家を滅ぼすほどの影響をもたらす場合もあるため、可能な限り速戦即決に努めなければならない。戦争の長期化に対して厳重に注意を促している。
  • 謀攻篇は、戦わずして勝つことが最も優れた勝ち方であると説いている。戦場で敵の軍勢を打ち破ることは決して望ましいことではなく、外交、謀略といった手段を駆使し、実際に兵を動かすことなく目的を達成する方法を推奨している。
  • 軍形篇は、戦争の形には決まったものがなく、その時々の状況に応じて変化し続けるものであることを論じている。特に不敗の態勢を作り上げることが重要であり、戦闘を挑む際には前もって必勝の条件を整えておくことが肝心だと指摘されている。
  • 兵勢篇は、戦いの勢いについて述べており、名目の上での戦力だけで優劣を判断してはならないと強調している。勢いを決める要因として堅固な編成と巧妙な作戦が重要であり、特に作戦においては正攻法だけにとらわれてはならないと解説されている。
  • 虚実篇は、虚と実という言葉を使い、疲労、飢餓、動揺、欺騙、攪乱、陽動がもたらす心理的な影響について指摘している。敵にとって不利な虚を捉えて、味方にとって有利な実でもって打撃すれば、勝利を収めることが可能になる。
  • 軍争篇は、決まり切った定番の戦法と意外性のある戦法を組み合わせることを説いている。敵を欺くことを意識すれば、常に主導的地位に立つことができる。そのためにも風林火山という言葉で示されるように、変幻自在に戦うことが重要である。
  • 九変篇は、戦争で起こる変化に指揮官が的確に対処することを述べるため、一途に戦ってはならないと主張する。つまり、臨機応変に対応することが重要であり、また人徳と打算の両面において指揮官がバランスのとれた人物でなければならない。
  • 行軍篇は、地形に応じて危険を察知し、的確な敵情判断を行いながら部隊を指揮することを論じている。軍隊が戦闘で崩壊する要因をパターンごとに整理した上で、地形を利用しながら状況を把握することが指揮官としての務めだと考えられている。
  • 地形篇は、さまざまな地形の特性を6種類のパターンに分類し、主に遠征の際に部隊をどのように運用すべきなのかを論じている。将軍として知っておくべき指揮統率や戦闘要領も併せて議論されている。
  • 九地篇は、戦場の状況を9種類のパターンに分けて紹介して、それぞれの場合に応じた処置を論じている。特に遠征に赴く際には、その地域の特性を踏まえる必要があると述べられている。
  • 火攻篇は、火攻めの方法について解説しており、その時々の状況に応じた異なる攻撃方法についても紹介されている。
  • 用間篇は、情報の意義を訴えた上で、間者を普段から運用し、戦争にあたって正確かつ的確な情報を入手することが重要であるとの考察を展開している。

軍事思想としての特徴

孫武の思想は、あらゆる軍事問題を利害、虚実、正奇などの概念を使いながら把握する点に特徴があり、最小の費用で最大の便益が得られる合理的な選択を模索している。その軍事的合理主義の姿勢は一貫して守られており、兵士が脱走することを防ぐため、あえて味方部隊を絶体絶命の戦場に送り込むことや、敵部隊に対して優位に立つためには欺騙を積極的に駆使するように推奨している(学説紹介 『孫子』の戦略思想と不戦屈敵の論理を参照)。『孫子』の用語や表現には一般的すぎる部分や、曖昧な部分も少なくないが、その基本思想に時代や地域を超えた普遍性があり、軍事学の歴史において重要な業績と位置付けられることは確かである。