トゥハチェフスキー

トゥハチェフスキー

ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー(Михаил Николаевич Тухачевский, Mikhail Nikolayvich Tukhachevskiy, 1893年2月16日 - 1937年6月11日)は、ソ連の陸軍軍人である。

経歴

スモレンスク県の出身。没落した貴族の家に生まれた。基礎教育を終えてから1909年に陸軍幼年学校に入校し、軍人としての教育訓練を受け、第一次世界大戦が勃発する1914年に士官候補生としての教育課程を修了し、少尉に任官した。東部戦線では短期間の従軍だったにもかかわらず、数多くの戦功を残し、大尉にまで昇進した。1915年にドイツ軍の捕虜になったが、1917年に収容所を脱走することに成功し、帰国を果たした。帰国した当時、ロシアでは革命が進行中だったため、1918年にボリシェビキに入党し、赤軍の部隊で指揮をとった。

1920年の対ポーランド戦では一軍の指揮をとる司令官に就任した。その後も要職を歴任したが、1924年にスターリン政権が発足してから政治的に危険視される立場に置かれた。1925年に参謀総長に就任し、軍隊の近代化を推し進め、1936年の赤軍の『野外令』の編纂にも携わるなどの功績を残したが、1937年にはドイツのスパイの容疑で逮捕された。拷問の末に引き出された自白で有罪になり、銃殺刑に処せられた。モスクワにて死去。1956年に名誉回復されている。