蔡鍔

蔡鍔

蔡鍔(Cai E 1882年12月18日 - 1916年11月8日)は清末民初の軍人である。辛亥革命で挙兵し、また袁世凱と対決したことで知られているが、『軍国民篇』、『曾胡治兵語録』の著者としても知られている。

経歴・業績

湖南省邵陽県の生まれ。行商人の父に連れられて武岡山門大埧に移り、その私塾で学問に励んだ。1897年に湖南省で改革派が創設した時務学堂に入ったが、1898年に西太后を中心とする保守派が武力で改革派を粛清する戊戌の政変によって時務学堂は閉鎖された。そこで日清戦争で戦勝国となり、近代化を進めていた日本留学を決断し、学友と共に東京高等大同学校で学んだ。この時期に清で計画された反乱に参加するため、一時的に帰国したが、計画は失敗し、学友の多くが殺された。生還できた蔡鍔は軍事学の研究を志すようになり、1901年から陸軍士官学校の予備教育を行っていた成城学校で学び始め、1903年に陸軍士官学校に入校できた(第3期生)。1904年に学校を卒業して清に帰国し、1905年から清軍の要職を歴任していた。しかし、1911年に辛亥革命が勃発すると雲南省で挙兵して政権を奪取した。新たに建国された中華民国を支持していたが、袁世凱が帝政の復活を宣言したことから敵対の姿勢をとり、1915年に雲南の独立を宣言した。1916年に袁世凱は雲南省に軍を侵攻させたが、蔡鍔は数的に劣勢だったにもかかわらず、四川省での戦闘で敵を撃破することに成功した。この戦果によって袁世凱の帝政は打破され、四川督軍兼省長に就任した。しかし、それから間もなく結核のために健康状態が悪化し始め、日本に渡って九州の病院で治療を受けたが、そのまま回復することなく死去した。

蔡鍔の著作は全国民の国防意識を高める必要を呼びかけるために書かれている。『軍国民篇』(1902)では、日清戦争で日本に敗れた清の問題として、当時の中国の教育、文化などの社会制度が軍人精神の普及促進を阻害していることを挙げた。中国の全国民が軍事思想を身に着けることによって、世界の列強に対抗することが訴えられていた。別の著作『曾胡治兵語録』(1911)は、より教育的な目的のために書かれたものであり、太平天国の乱(1851)で反乱軍の鎮圧に活躍した軍人である曽国藩(1811 - 1872)と胡林翼(1812 - 1861)の軍事に関する箴言がまとめられている。この著作は1924年に中華民国が創設した陸軍軍官学校で校長に就任した蒋介石(1887 - 1975)によって教科書に指定されたため、多くの将校に読まれることになり、現在も軍事の古典として出版されている。

文献情報

  • 蔡锷『曾胡治兵语录(黄埔军校版)』 漓江出版社、2014年