呉起

呉起

呉起(? - 前381年)は戦国時代の中国の軍人、政治家である。孫武と並び武経七書の『呉子』を著した兵家として知られている。

経歴

衛(現山東省)で生まれ、孔子の門下にいた曾参の息子である曾申に師事した。兵法の研究に取り組み、当初は魯の軍人になった。魯は決して軍事大国ではなかったが、呉起は巧みな兵法を駆使して斉との戦争で戦功を上げた。しかし、前412年頃に魯を去り、文侯が治めていた魏に移った。呉起は秦軍との戦争で軍を指揮し、前409年あるいは翌408年の戦役で5カ所の城を次々と陥落させる目覚ましい戦功を上げた。文侯はこれを高く評価したため、呉起は魏の西河の守に任じられることになった。しかし、前395年に武侯が新たに魏王に即位してからは呉起の政治的立場が悪化し、楚へと走った。呉起の戦功を知っていた楚王の悼王は呉起を宰相として重用したため、その期待に応えようと呉起は国内の改革を大胆に推進し、法を厳しくしようとした。しかし、数年も経ずに多くの勢力を敵に回してしまい、前381年には殺された。死後も武将としての評価が揺るぐことはなく、著作『呉起』は『孫子』に並ぶ中国の古典的兵書として位置づけられた。

思想

呉起の著作『呉子』は呉起が魏の文侯、武侯に兵法を説く対話の形式で書かれている。呉起は国家が適切に統治されていなければ戦争を遂行することはできないと考え、国内の不和を取り除くことが重要だと主張した。そのためには道、義、礼、仁の四徳を君主が修めなければならず、特に礼と義の徳目は軍隊の統帥において不可欠だとされている。国家の政情を重視する立場から、呉起は外国の内情をよく知ることが戦争に勝つことに繋がると主張しており、その外国の政情が軍隊の状態に反映されるなどと指摘した。戦争における軍隊の運用について呉起は行軍の際に定期的な休止を挟み、適切に給食するなど、行軍力の保持に努めるべきことや、全軍に教育訓練を施して、号令に応じて部隊が教練を実施できるようにすること、地形に応じた陣地を占領することなどが論じられている。呉起は訓練の重要性を述べる以外にも、人材の特性を評価し、適切な指揮官を選出することの意義についても多くの議論を書き残しているほか、険しい隘路や雨天の影響下で大軍に立ち向かうための戦術的原則も示されている。