D.ヘンダーソン

D.ヘンダーソン

デイヴィッド・ヘンダーソン(David Henderson  1862年8月11日– 1921年8月17日)はイギリスの陸軍軍人。

経歴

グラスゴー出身。造船会社の経営者の家に生まれた。1877年に15歳でグラスゴー大学に入学し、工学を専攻し、土木工学を研究した。しかし、グラスゴー大学を卒業することはせず、1881年にサンドハーストの陸軍士官候補生学校に入校した。1883年に中尉としてアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ連隊に配属され、1890年に大尉に進級した。カンブレーの参謀大学校に進学し、1895年に卒業した。1898年のナイル川の遠征に参加し、同年に少佐に進級した。1899年にボーア戦争が勃発すると、情報勤務を命じられ、1900年に中佐になった。翌年、総司令官ホレイショ・ハーバート・キッチナーに見出され、司令部の軍事情報部長(director of military intelligence)に補任された。このときの経験をもとにして1904年に『野戦情報(Field Intelligence)』(1904)と『偵察の技術(The Art of Reconnaissance)』(1907)を出版し、情報の専門家として注目されるようになった。

1911年に49歳で航空技術を学び始め、陸軍における航空隊の創設に貢献した。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、世界で初めて固定翼機を運用する陸軍航空隊の隊長として部隊の指揮をとり、航空偵察の可能性を模索した。1914年11月から一時的に第一歩兵師団の指揮をとったが、12月に航空隊の隊長に復帰した。この時期には航空戦力の装備開発や部隊運用に関する調査研究の成果をまとめ、ヤン・スマッツの名前で発表された航空改革を提案した『スマッツ報告書』の大部分を執筆した。1918年1月にイギリスの航空委員会の副委員長を務めたが、この地位にも長くとどまらず、フランスに戻った。1918年に停戦に至ると、パリ講和会議で軍事顧問を務めた。その後はスイスに移り、赤十字の仕事に携わった。ジュネーブにて死去。

業績

情報戦に関する研究で重要な成果を残している。ボーア戦争の経験を踏まえて執筆した『野戦情報』は、偵察、捕虜尋問、情報の評価、報告書の作成、対情報など幅広い論点を網羅した著作であり、1904年にネヴィル・リトルトン(Neville Lyttleton)がイギリス陸軍の初代参謀総長に補任されたとき、『野戦情報』を教育資料と位置づけて出版させている。