セヴァスキー

セヴァスキー

アレクサンダー・ド・セヴァスキー(Alexander Nikolaievich Prokofiev de Seversky, 1894年6月7日 - 1974年8月24日)はロシア出身の軍人、航空技術者である。航空戦略の先駆者の一人として知られている。

経歴

1894年、ロシア帝国のトビリシ(現ジョージア)で生まれた。10歳になった1904年に海軍に入隊し、士官候補生学校で学んだ。少尉任官は第一次世界大戦が勃発した1914年であり、駆逐艦で勤務した。クリミア半島のセヴァストポリの航空学校を卒業し、バルト海方面艦隊の航空隊付になった。爆撃機、戦闘機の搭乗員として勤務し、1917年に戦闘機部隊の指揮官に任命された。1915年に戦闘で負傷し、右足を失ったが、その後も航空部隊に復帰し、数多くの軍功を上げた。そのことが評価され、セント・ジョージ勲章が授与されている。その功績が認められ、1918年にアメリカに派遣される海軍航空使節団に参加することになった。

しかし、ロシア革命が発生したことを受けてアメリカ政府の航空技師に転じた。休戦が成立してからアメリカ陸軍航空隊司令官ミッチェルの顧問に就任し、次いで陸軍省の顧問技師に任命された。アメリカ陸軍における勤務によりセヴァスキーは1927年に市民権を取得することが可能となり、1928年にはアメリカ航空部隊特別予備少佐という階級を与えられた。この時期にセヴァスキーが残した技術的功績として世界最初の完全自動爆撃照準器の発明があり、1931年にはセヴァスキー航空会社を設立した。この会社でセヴァスキーは航空機の設計に従事し、また航空戦略の研究にも取り組んだ。その成果は『エアパワーによる勝利』(1942)として発表されており、そこで第二次世界大戦以降の航空技術の向上を見据えた戦略思想が示されている。1974年に死去した。

思想

セヴァスキーはドゥーエミッチェルと同じように、航空戦力の優勢がなければ現代の戦争を遂行することは不可能になったと考えていた。そのことは第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃戦は、航空優勢の獲得に依拠していた部分が大きかったことで例示されている。1940年にドイツがノルウェーに進攻できたのは、デンマークなどに基地を置く航空戦力でイギリス海軍の動きを食い止めたことにあり、イギリス陸軍をエジプトへ後退させたのもドイツ空軍の部隊がアフリカに進出した結果だったとセヴァスキーは指摘している。航空機は陸上戦闘、海上戦闘のいずれにおいても使用が可能であり、国家の軍事力の中核として測定されなければならなくなった。

空軍の戦略に関してセヴァスキーが述べているのは、敵の航空戦力に対して優勢を期するべきということだが、より具体的な原則として空軍の行動半径が作戦地域の最大範囲と等しくなければならないことも述べている。セヴァスキーの見解によれば、作戦地域の拡大に対してドイツ空軍の航空機の行動半径が不足したことが大きな問題だった。航続距離が足りないために、ドイツはイギリスに航空攻撃を加えるためにオランダ、ベルギー、フランスを占領し、基地を推進しなければならなかった。独ソ戦が勃発した際にも同様の問題が起こり、ドイツ空軍は航続距離が不足していた。空軍は中継のための基地がなくても敵に対して攻撃できなければならないとセヴァスキーは主張した。

またセヴァスキーの議論の特徴は航空戦闘において量的要素よりも質的要素を重視したことである。第二次世界大戦でドイツ空軍は数的優勢によってイギリス空軍を撃滅しようとしたが、イギリスのスピットファイアは、ドイツのメッサーシュミット109に比較して速度、火力の両方の性能で上回っていたことが戦闘の結果に影響を及ぼしたと考えられる。しかし、航空機の設計では速力、航続距離、上昇能力、積載能力などの要素を相互に妥協させる必要に迫られるため、一種類の機体であらゆる任務を遂行することはできない。そのため、ある航空機が敵に対して質的な優位を占めるためには、特殊化の原則が基本になるとセヴァスキーは考えた。

業績

セヴァスキーの主著は『エアパワーによる勝利(Victory through Air Power)』(1942)である。しかし、一般に刊行された書籍を調べる限り、この著作はまだ翻訳されていないが、内容の要点に関しては拙稿の「地政学でエアパワーはどのように考察されたのか? セヴァスキー『エアパワーによる勝利』(1942)の紹介」を参照されたい。ここでは原著の文献情報を示すが、古書も入手が困難な状況であり、入手できるものに関しても状態が劣悪なものが少なくないため、Amazon等で調達する際には特別な注意を要する。