レープ

レープ

ヴィルヘルム・フォン・レープ(Wilhelm Josef Franz Ritter von Leeb, 1876年9月5日 - 1956年4月29日)はドイツの陸軍軍人。

経歴

バイエルンのランツベルク・アム・レヒ出身。1895年にバイエルン陸軍の砲兵連隊に入隊し、1897年に少尉に任官した。1900年に中国で義和団の乱が勃発すると、ドイツ極東派遣軍の鎮圧作戦に参加した。

1903年にバイエルン陸軍大学校に入校し、1907年に優秀な成績で卒業してからはバイエルン陸軍の参謀本部で参謀要務の経験を積んだ。1914年に勃発した第一次世界大戦でも各地を転戦し、1915年の東部戦線でドイツ・オーストリア連合軍がロシア軍に対する攻勢を発起した際には、目覚ましい活躍でマックス・ヨーゼフ軍事勲章を受章した。戦闘が終わった1918年以降もドイツ軍に残留し、ミュンヘンで第七師団長を、カッセルで第二軍集団司令官などの要職を歴任した。1938年、軍事学の研究業績として『防御(Die Abwehr)』を出版し、高い評価を受けている。

しかし、同年にアドルフ・ヒトラーの戦争計画に反対していた国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルクと陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが同時に罷免された影響で(ブロンベルク罷免事件)、リープも予備役に編入されることになった。ところが、その年のうちに現役に復帰することが決まり、第一二軍司令官に任命されたが、ズデーテンでの軍事的な危機が収束すると再び予備役に編入された。1939年に再度、現役復帰を果たすと、C軍集団司令官となり、1940年の対フランス戦に参加した。フランスがドイツに降伏すると、ソ連との戦争の準備のため、1941年に北方軍集団司令官に任命された。北方軍集団はレニングラードを攻略する任務を与えられていたが、隷下の機甲部隊がモスクワを攻略するための中央軍集団に抽出されたため、レニングラードの攻略には至らなかった。1942年に司令官を解任され、二度と軍務につくことはなかった。

1945年に第二次世界大戦が終結すると米軍の捕虜にになり、ニュルンベルク軍事審議会前の戦争犯罪の法廷で有罪判決を受け、懲役3年となったが、すでに捕虜生活が3年を経過していたために釈放された。バイエルン州のフュッセンにて死去。

思想・著作

著作『防御(Die Abwehr)』(1938)は第一次世界大戦の経験を踏まえつつ、防御に関する既存の考え方を見直し、近代戦の規模や様相を踏まえた防御戦闘の独自構想を示すものとして重要な研究業績である。カール・フォン・クラウゼヴィッツの説を取り入れ、防御それ自体は攻撃よりも強力な戦闘の形態であると主張し、特に数的な勢力が劣勢な状況で軍隊を運用する際には、防御の利点を最大限に活用することが重要だと考えた。ただし、近代戦における防御は専守防御であってはならず、機甲部隊や航空部隊を予備として拘置しておき、これを機動的に運用して効果的に逆襲することが重要であるとも論じている。著作は英語に翻訳されている。