グデーリアン

グデーリアン

ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian 1888年6月17日 - 1954年5月14日)はドイツの陸軍軍人であり、機甲戦の研究成果で評価されている。

経歴

クロム出身。陸軍将校の家に生まれ、1900年9月にカールスルーエ陸軍幼年学校に入学し、1903年4月にベルリンのグロス・リヒターフェルデ陸軍士官候補生学校に入学、1908年に少尉としてゴスラー第一〇猟兵大隊に配属された。1913年に陸軍大学校に入学しているが、戦争の恐れが高まったことから無線局の指揮をとることになった。1914年に戦争が勃発してから通信科将校として第四軍司令部に配属され、1915年から1917年にかけては、さまざまな参謀業務を担当した。1918年に参謀本部に配属され、そこで休戦が成立するまで勤務を続け、陸軍中央に通じる人脈を確立していった。

1918年のドイツ革命は国内に大きな政治的混乱をもたらし、政府の指揮系統から離れた武装勢力である義勇軍が数多く組織されていた。ドイツ東部の国境地帯でも陸軍中央に従わず勝手な戦闘行動をとる鉄師団があり、これを統制する目的でグデーリアンは現地に派遣された。1919年、ヴェルサイユ条約によってドイツが厳しい軍備制限を受けることになったが、グデーリアンは4000名の将校と100,000名の下士卒で編成される軍隊の一員に選ばれることになった。それだけでなく、1922年には条約で禁止された参謀本部の存在を他国から隠蔽するために設置された兵務局の輸送兵監部に配属された。1922年から1924年までミュンヘンに赴任し、輸送大隊で勤務し、1924年から1927年までは第二師団の参謀将校として、研究や教育に十字した。1927年には参謀本部の勤務に戻ったが、1930年から1931年にかけて再び部隊に勤務しており、この時期から自動車輸送大隊の指揮をとるなど、その後の機甲戦の研究に通じる経験を積んだ。1931年から輸送隊司令部に勤務する参謀総長に就任していたが、1933年にナチ党のアドルフ・ヒトラーが首相に就任したことで、軍備拡張の政策が採用されることになり、1935年に新説された第二装甲師団の師団長に就任した。

著作『戦車に注目せよ』(1937)はこのような状況下で書かれた機甲戦の著作であり、この業績でグデーリアンに対する評価は高まった。1937年、第一六軍団の司令官就任を経て、1938年には第二装甲師団の師団長に戻り、オーストリア併合でウィーンまでの進軍の指揮をとった。第二次世界大戦が勃発した1939年には第一六装甲軍団の司令官としてポーランド戦役に加わり、1940年のフランス侵攻でも最先頭を進軍する第一九装甲軍団の指揮をとった。1941年に始まった独ソ戦では第二装甲集団の指揮をとり、開戦当初は戦果を上げたが、モスクワへの進撃は頓挫した。その後、戦況悪化や健康状態から軍務を外れたが、1943年に装甲兵総監に就任し、軍需生産の立て直しに取り組んだ。1944年に暗殺未遂事件を受けてヒトラーから参謀総長に就任するように命じられたが、1945年に解任された。戦後、短期にわたって連合国に身柄を拘束されたが、戦争犯罪人として起訴されることはなかった。アメリカ陸軍の機甲学校で教育に携わり、また著作を書き残すことで、自らの機甲戦に関する見解を発表した。1953年にシュヴァンガウで死去。

主著とされる『戦車に注目せよ』だけでなく、その他の小論も翻訳されている。詳細については以下の文献を参照されたい。また自伝も書き残されている。