クラウゼヴィッツ

クラウゼヴィッツ

カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz 1780年7月1日 - 1831年11月16日)はプロイセンの陸軍軍人である。近代の軍事学の礎を築いた軍事学者であり、『戦争論』、『戦争術の大原則』などの著者として世界的に知られている。

経歴

1780年6月1日、プロイセンのブルクで官吏の家に生まれる。生活は厳しく、父親は軍人だった頃の人脈を通じて息子を次々と陸軍に入隊させていた。その方針もあって、1792年に12歳の少年兵として陸軍に入隊することになった。1793年から1794年にかけてフランス革命戦争に従軍し、1795年の時に15歳で少尉に任官した。連隊の勤務をこなす傍らで勉学に励み、1801年にベルリンの士官養成学校に入校することが許され、そこで本格的に軍事学の研究に取り組むようになる。この学校で出会ったゲルハルト・フォン・シャルンホルスト(1755-1813)に師事し、自らの思想を発展するきっかけをつかんだ。

ベルリンでクラウゼヴィッツは多くの人々と知り合うことができた。シャルンホルストの紹介で宮廷に出入りするようになり、そこで将来の妻となるマリー・フォン・ブリュールと出会う。1803年に23歳で士官養成学校を主席で卒業すると、アウグスト親王が率いる近衛大隊の副官に配属されることが決まり、ベルリンに留まることができた。間もなく、プロイセンはフランスとの戦争になり、クラウゼヴィッツの部隊も1806年にフランス軍とのイエナの戦いに参加した。戦闘でプロイセン軍は敗北し、クラウゼヴィッツもアウグスト親王と共にフランス軍の捕虜になったが、間もなく講和が成立したため、プロイセンに帰国することが許された。

帰国後、クラウゼヴィッツは敗戦国になったプロイセンの軍隊を再建し、将来のフランスとの戦争に備えるために、軍事学の研究を進めた。1810年にベルリンで新たに設置された陸軍大学校の教官に任命され、シャルンホルストが陸軍省で指導した改革にも積極的に参加した。同時期に皇太子の軍事学講師も務めるなど、クラウゼヴィッツは陸軍の中央で影響力を増していった。1812年にフランスがロシア遠征でプロイセンに兵を出すように要求した際に、クラウゼヴィッツは仲間と共に反対の立場をとった。結局、国王がフランスに従う政策をとったため、クラウゼヴィッツはフランス軍に味方して戦うことを拒み、仲間と共にロシア軍へ身を投じた。この際にベルリンでの授業は中断されたが、クラウゼヴィッツは去り際に自分の授業を総括した論文『戦争術の大原則』を皇太子に送っている。

ナポレオンがロシアに進攻を始めると、クラウゼヴィッツはロシア軍の参謀として勤務することになった。戦局は思わしくなかったが、モスクワを占領したフランス軍が退却を始めると、ロシア軍は反攻に転じた。この際に、後衛でフランス軍の退却を掩護していたプロイセン軍の派遣部隊の指揮官に接触し、彼らをロシア軍に味方させることに成功した。これはプロイセンがフランスを裏切る契機となった。その後もフランスとの戦争は続き、クラウゼヴィッツは1814年にプロイセン軍に復帰することが許された。1815年にナポレオン戦争が終結すると、クラウゼヴィッツは再び平穏な暮らしを取り戻していった。1818年に就任した陸軍大学校の校長は管理事務の他に仕事があまりなかったため、仕事の合間を見つけて『戦争論』の執筆に取り組むようになった。しかし、この研究は完成する前に第二砲兵総監としてブレスラウに転勤することになった。

1830年に起きたポーランド革命では第四東方軍団が新たに編成されることになり、クラウゼヴィッツはその参謀長に任じられた。しかし、翌1831年にコレラに感染したことで体調を崩し、ブレスラウにおいて51歳で死去した。遺稿は妻のマリーの手に残され、彼女はこれを刊行するために尽力した。その努力の成果として、1832年からクラウゼヴィッツの遺稿集が数巻に分けて出版されることになり、これによってクラウゼヴィッツの研究業績が広く知られることになった。

思想

軍事学におけるクラウゼヴィッツの学問的貢献で最も重要な要素は、戦争は政治によって定められた目的を達成する手段である、という思想である。戦争には固有の原理原則が存在しており、それは軍隊の活動を規定する要因となっている。しかし、だからといって軍事的な観点から戦争のすべてが理解できるわけではなく、その戦争が目指しているものは、政治的な観点から調べなければならない。

その政策が何を求めているかによって、その戦争で用いられる暴力の程度も変化し、敵を徹底的に殲滅しようとする烈度の高い戦争になる場合もあれば、長期間にわたって睨み合うだけの烈度の低い戦争になる場合もある。このようなクラウゼヴィッツの学説は、その後の研究者が戦略理論を発展させる上で、重要な理論的基礎を与えた(参考記事、学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―)。

主著

クラウゼヴィッツは政治や軍事史に関する著作も残しているが、最も重要な業績は死後に刊行された『戦争論』である。軍事学で最も重要な古典の一つとされていることもあり、日本でも戦前から翻訳が行われてきた。以下に訳書を挙げる。初めて読む場合は、日本クラウゼヴィッツ学会訳を推奨する。

  • クラウゼヴィッツ『戦争論』清水多吉訳、中央公論新社、2001年
  • クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、岩波書店、1968年
  • クラウゼヴィッツ『レクラム版 戦争論』日本クラウゼヴィッツ学会訳、芙蓉書房出版、2001年