ギャビン

ギャビン

ジェームズ・ギャビン(James Maurice Gavin, 1907年3月22日 - 1990年2月23日)はアメリカの陸軍軍人である。ミサイル時代における西側の世界戦略を考察した先駆的な人物として知られている。

経歴

ニューヨーク出身。貧しい家に生まれ、12歳から働き始めた。1924年に家を飛び出し、ニューヨークで一兵卒として陸軍に入隊した。入隊後はパナマの部隊に配属されたが、上官や周囲に高く評価され、周囲の勧めに従って勉学に励み、1925年には陸軍士官候補生学校に合格した。1929年に学校を卒業して少尉に任官し、職種は歩兵科となった。アリゾナ州の歩兵連隊に配属され、そこで3年を過ごしてから歩兵学校でジョージ・マーシャルなどから戦術学の教えを受けた。この頃から軍事学の研究に熱心に取り組むようになり、学校を卒業して1933年にオクラホマ州の歩兵連隊に配属されてから、イギリスの軍人ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーの著作に感銘を受けた。1936年にはフィリピンに赴任し、1年半にわたって現地の防衛体制を充実させることに取り組んだが、部隊の態勢は旧態依然としたものであり、第一次世界大戦の時代の編成、装備、戦術から脱却できていない実情を知り、将来の対日戦を見据えて、より抜本的な改革が必要だと考えるようになった。

その後、カリフォルニア州での部隊勤務を経て、ウェストポイントで士官候補生に戦術学を教える教官となった。当時、ドイツ式の戦術に関する関心が高まっており、ギャビンもドイツ陸軍の空挺作戦について興味を持っていた。特に1940年にエバン・エマール要塞の戦いでドイツ軍が空挺作戦を成功させたことに着目し、1941年8月から本格的に空挺戦術の研究に取り組んだ。その努力は1942年の第82空挺師団の創設として実を結び、1943年にシチリア侵攻に参加することになった。ハスキー作戦では第505空挺歩兵連隊を率い、アメリカ陸軍で初の試みとなった空挺上陸の指揮をとった。この作戦での功績により准将に昇進している。1944年にはフランス北部のノルマンディーへの着上陸作戦であるオーバーロード作戦をはじめ、マーケット・ガーデン作戦、バルジの戦いと対ドイツ戦の多くに参加した。第二次世界大戦が終結してからは、陸軍の研究開発局長を務め、ペントミック師団の発展に貢献し、そこで空中機動の意義を主張していた。しかし、陸軍の誘導ミサイル開発計画をめぐって国防総省と対立を深め、1958年に退役することになった。

その後、調査研究業務を手掛けるアーサー・D・リトル(Arthur D. Little)社に再就職し、1958年に副社長、1960年に社長となった。1961年にはジョン・F・ケネディ大統領に在フランス大使を任命されており、社長職を一時的に休止し、1962年までフランスの戦後復興を支援する任務を遂行した。メリーランド州にて死去。

業績

ギャビンの主著『宇宙時代における戦争と平和(War and Peace in the Space Age)』は陸軍を退役した後で出版された。大きく3つの部から構成されており、第1部は著者が第二次世界大戦に従軍するまでの経緯を述べた自叙伝的な内容であり、第2部は冷戦が始まってからアメリカが直面する軍事上の問題が科学技術の問題として理解できることを述べた。

軍事学的に注目すべきは第3部の内容であり、そこでは対ソ戦を想定した上で、限定戦争と全面戦争の両方に備えるため、どのような戦力態勢を構築すべきかを考察している。要点をまとめると、ギャビンは1965年までにミサイルの技術が発達し、核戦力の主要な要素として移動式の大陸間弾道ミサイルが普及すると予測されている。そのため、いったん米ソが開戦すれば、戦域はたちまち宇宙空間にまで拡大する恐れがあるため、アメリカ軍として新たな戦力配備をとるべきだと提案した。

1957年にソ連が人類史上初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功したことを考えれば、ギャビンは核兵器の運搬手段が爆撃機から大陸間弾道ミサイルへと劇的に変化する時代を見据え、将来戦のための新たな戦略をいち早く構想した人物として評価することができる。