第一次世界大戦

第一次世界大戦

第一次世界大戦(World War I)は1914年7月から1918年11月まで4年近く続いたドイツ、オーストリア、トルコとイギリス、フランス、イタリア、ロシア、アメリカ、日本との戦争である。

地政学的な規模で遂行された戦争であるだけでなく、航空機、戦車、化学兵器、潜水艦などの新しい装備体系が本格的に運用された戦争として、また国家の総力を挙げて遂行された戦争としても画期的な事例であり、その教訓は第二次世界大戦に引き継がれた。

概要

第一次世界大戦が勃発する直前のヨーロッパは二つの陣営に分断されており、一方にドイツ、オーストリア、イタリアからなる同盟国、他方にイギリス、フランス、ロシアからなる連合国があった。アメリカはヨーロッパの戦争に関わらない中立政策をとっており、日本は日英同盟でイギリスと繋がっていた。オスマン帝国(以下、トルコ)は同盟国の陣営の一員ではなかったが、ロシアと対立していた。

このような国際情勢で特に深刻だったのがドイツとフランスの対立であり、普仏戦争(1870 - 1871)でドイツに敗れていたフランスはドイツに対する報復の機を伺い、ドイツもそのことを察知していた。ヨーロッパの中心部に位置するドイツは西からフランス、東からロシアに挟撃されることを恐れていたので、戦争計画ではシュリーフェンの計画で対仏戦を短期で決着させ、次に対露戦を遂行する構想だった。しかし、このような戦争計画は緊張状態が高まった時の外交を制約した。

開戦の直接的な要因になったのは1914年6月28日、セルビアの過激派がサライェヴォを旅行していたオーストリア皇太子を暗殺する事件が発生したことである。オーストリアはセルビアに宣戦し、セルビアはロシアに支援を求めた。ロシアが総動員の兆候を見せるとドイツは既定の戦争計画を実施し、ロシアに備える東部戦線で防勢をとりつつも、フランスに対する西部戦線では攻勢をとった。その結果として、ベルギーなどの中立国の領土を進軍してフランスへ侵攻したが、この中立国への侵攻はイギリスの参戦を招いた。

イギリスは遠征軍をフランスに派遣し、西部戦線で展開してドイツの進撃を阻止しようとした。ドイツは開戦当初の1914年8月はベルギーなどを進撃していたが、9月にマルヌの戦いによってフランスに前進を阻まれ、塹壕戦に移行した。セルビアを攻撃したオーストリアは予想以上の抵抗に直面しており、またロシアの攻勢を受けたことで甚大な被害が発生していた。ロシアの部隊はドイツにも進撃してきたが、ドイツは8月のタンネンベルクの戦いで決定的打撃を与えることに成功した。

ドイツはフランスを支援するイギリスの能力を低下させるため、潜水艦を北海に進出させ、通商破壊に従事させる作戦を開始した。これはイギリスの海上交通路を脅かすものだったが、ドイツもイギリスによって海上封鎖を受けており、ヨーロッパから遠く離れたアジアやアフリカの植民地の防衛に本国から部隊を送り込むことも、物資を搬入することもできなくなっていった。日英同盟に基づいて参戦した日本は11月から中国や太平洋におけるドイツの植民地を次々と奪取することに成功した。

このように戦局が動いていたが、三国同盟の一員であるイタリアはまだ中立を保っていた。イタリアは参戦すべきか否か、あるいは同盟国と連合国のどちらに味方すべきかなどをめぐって国内が分裂していた。開戦した当初はトルコも参戦していなかったが、地中海に展開していたドイツの艦艇を援助し、対露戦を支援したことから、イギリスとフランスはトルコに対して宣戦した。イギリスはトルコを弱体化させるために工作員を送り込み、アラブ人の反乱軍を支援しただけでなく、石油施設を確保するためにメソポタミアに部隊を派遣した。

1915年にドイツは西部戦線で防御陣地を強化し、新兵器を投入することで、攻撃を仕掛けるフランスとイギリスに大きな損害を与えることに成功した。時間的猶予を得たドイツは、前年の戦闘で疲弊したオーストリアを援助するだけでなく、ロシアに対して大胆な攻勢を実施し、セルビアを占領した。それに対してイギリスは工作でイタリアを連合国に引き入れ、5月にオーストリアに侵攻させることに成功した。同じ月にはイギリスの客船ルシタニア号がドイツの潜水艦に撃沈される事件が起こり、中立国のアメリカからも犠牲者が出ていたので、イギリスはアメリカに参戦を呼び掛けた。またイギリスはオーストラリアやニュージーランドで動員した部隊をトルコに派遣し、着上陸作戦を実施させたが、これは失敗に終わっている。

1916年にドイツは西部戦線で大規模な攻勢をとった。攻撃目標はパリ防衛の要に位置するヴェルダン要塞であり、激戦となったが、東部戦線でロシアの攻勢が始まってオーストリアに深刻な損害が出ていたため、ドイツは作戦を中止して戦力を東部戦線に転用しなければならなくなった。ロシアの攻勢は食い止められ、ロシアも大きな損害を受けたが、西部戦線でフランスが受けた損害も重大なものであり、また同戦線で反攻に転じたイギリスもソンムの戦いでドイツに敗退した。ドイツはイギリスから海上優勢を奪取するためユトランド沖海戦を挑んだが、所望の結果を出せなかった。これは中立国アメリカとの関係を悪化させる恐れがあった。

1917年、ドイツは西部戦線で再び防御態勢を強化するようになり、東部戦線で対露戦に戦力を集中するようになった。フランスはこの年に大規模な攻勢を計画したが、ドイツの防御陣地に前進を阻まれ、深刻な損害を出した。フランス軍では部隊が命令不服従が相次ぐ事態になり、もはや攻勢作戦の続行は不可能な状態に陥った。ロシアでも軍隊の内部で反乱の兆しが見られるようになり、3月にペテログラードで労働者のデモをきっかけに全市的なゼネストが起こると、兵士がこれに合流して自治組織ソヴィエトを結成した。これがロシア革命の発端となり、東部戦線におけるドイツの脅威は大きく後退することになった。

しかし、アメリカが参戦を決めたことによって、戦局は大きく変化した。アメリカはイギリス、フランスを支援するために西部戦線に部隊を派遣する計画を立案し、動員を開始した。ドイツはアメリカの援軍が西部戦線に展開する前に戦争を終結へ導く必要があると考え、1918年の春に大規模な攻勢を開始した。連合国の防衛線は南北に分断される危機に直面し、北部のイギリス軍と南部のフランス軍を統一指揮する体制が急遽確立され、危機を脱出することに成功した。アメリカの部隊が続々と来援すると、西部戦線における連合軍の優位が強化されていった。

この時期になるとドイツではイギリスの長引く海上封鎖と労働力の枯渇で物資の不足が深刻になっていた。西部戦線の攻勢が頓挫した背景にも物資の不足があった。ドイツは1918年3月にソ連と講和を結ぶことには成功したが、イギリス、フランス、日本、アメリカの連合軍が5月にウクライナやシベリアから侵攻しており、支援を求めることができるような状態ではなかった。9月から11月にかけてドイツの同盟国が次々と休戦を決定し、オーストリアも11月に休戦に入った。ドイツでは絶望的な戦況であるにもかかわらず出撃を命じられた水兵が反乱を起こし、その動きは全国に広がった。

1918年、ドイツの皇帝は亡命し、新しい政府が連合国と休戦協定を結んだことで、戦闘は中止された。その後、講和の条件をめぐって交渉が行われ、英仏伊米日の5カ国が中心に議論が進められた。結果的に起案されたヴェルサイユ条約はイギリスとフランスの立場を強く反映したものになり、ドイツに領土を割譲させるだけでなく、軍備を10万名以下の水準に制限し、広範な賠償支払いを強制するものだった。この条約は一方的に通告されただけでなく、戦争責任をドイツなどの同盟国に負わせるなど、従来の外交的慣例には見られない条件が盛り込まれていた。その後、ドイツ国民の支払い能力を超える賠償額が決定され、ドイツ国内でヴェルサイユ条約の破棄を訴えるナチ党が支持を広げることに繋がった。

参考文献

  • Howard, M. 2007. The First World War: A Very Short Introduction. Oxford University Press.(『第一次世界大戦』馬場優訳、法政大学出版局、2014年)
  • Liddell Hart, B. H. 1994. A History of the World War, 1914–1918. H. Fertig.(邦訳『第一次世界大戦』全2巻、上村達雄訳、中央公論新社、2001年)
  • Tucker, S. C., and Roberts, P. M., eds. 2005. Encyclopedia of World War I: A Political, Social and Military History. ABC-Clio.