トランキエ

トランキエ

ロジェ・トランキエRoger Trinquier, 1908320日 - 1986年1月11日)はフランスの陸軍軍人。現代戦として対反乱の重要性を主張したことで知られる。

経歴

フランスの南東部に位置するオート=アルプ県の出身。農民の家庭に生まれ、地元の学校で教育を受けた。1928年に2年の義務兵役に就くと、陸軍での職務に興味を持つようになり、1930年からは士官の候補生になった。サルト県の士官学校で教育を受け、1933年に卒業して少尉任官を果たした。最初はトゥーロンのセネガル人軽歩兵連隊で勤務したが、1934年5月11日にインドシナへ派遣され、中国との国境地帯で小隊の指揮をとった。1936年にフランスに帰国し、ドイツとの国境に近いサラルブで中隊長として勤務したが、1938年には再び海外に赴任することが決まり、中国へ渡った。当時、フランスは中国の天津に租借地を有しており、そこに駐留する部隊で勤務することになったが、1940年に勤務地は北京、上海へと変わっていった。この時期の中国では日中戦争が進行中であり、また1940年にフランスがドイツの支配下に入っていた。トランキエはこの時期に自由フランスと接触していない。第二次世界大戦が1945年に終結してから、フランスは海外の植民地での勢力を回復しようとしたが、各地で分離独立の動きが広がり、武力平定が必要となった。トランキエは1946年の初頭にインドシナに送られたが、同年の夏にフランス本国に帰国し、陸軍の第二植民地特殊作戦落下傘大隊の編成業務に従事した。その後、1947年には同大隊の副大隊長としてインドシナで反乱を平定する任務を遂行し、1948年に大隊長が戦死してからは大隊長となった。この時期の経験から対反乱作戦における戦術行動に関する意見を具申し、ビンズオン省の平定に貢献したが、1949年には大隊を率いてフランスに帰国した。1951年には、同年に新たに創設された特殊作戦混成空挺団(Groupement de Commandos Mixtes Aéroportés, GCMA)に配属され、改めてインドシナでの対反乱作戦に参加することになった。1953年には団の指揮を引き継いだが、1954年のディエンビエンフーの戦闘で味方が敗北したことにより、GCMAも撤退することを余儀なくされた。1955年にフランスに帰国したが、1956年にはアルジェリアに駐留する第10空挺師団の副師団長となり、1956年から1957年まで続いたアルジェ戦役でアルジェリア民族解放戦線との戦いを経験した。1957年に空挺学校で校長を務めたが、1958年には再びアルジェリアに戻り、第3植民地落下傘連隊の連隊長に補任され、アルジェリアの南部で対反乱作戦の指揮をとり、戦果を上げることができた。1960年にフランスに帰国したが、1961年に定年より早く現役から退くことを決めた。それから間もなく出版したのが『現代戦(Modern Warfare)』(1961)であり、これは対反乱作戦の実体験に基づく研究成果として注目された。その後はギリシャのアテネで農園を経営しながら、軍事顧問として短期間の軍事訓練の業務を請け負っていた。アルプ=マリティーム県のヴァンスにて死去。

業績

1961年に出版された『現代戦(La Guerre moderne)』は対反乱に関する研究として広く読まれ、英語に翻訳された。トランキエは現代の戦争の様相に正規軍がますます適応できなくなっていることを指摘し、小規模かつ機動的な特殊作戦部隊の重要性が増していることを認識すべきであると主張した。対反乱において獲得した捕虜から情報資料を引き出すために、組織的な拷問の使用を認めたことの是非については議論が分かれるが、対反乱の作戦、戦術に関する先駆的な研究成果として今でも参照されている。その内容の一部については拙稿の「アルジェリア戦争の経験からフランスの軍人が学んだテロリズムの効果」で紹介している。