ポーレン

ポーレン

アーサー・ポーレン(Arthur Joseph Hungerford Pollen, 1866年9月13日 - 1937年1月28日)はイギリスの評論家、事業家。電子式アナログ計算機を応用した射撃管制装置の研究開発を推進し、第一次世界大戦でのイギリス海軍の戦略・戦術を批判した。

経歴

オックスフォード大学で歴史学を学び、卒業後に政治家を志して自由党に入党するが、1895年の総選挙では落選した。1898年、保守党の政治家であるジョセフ・ローレンスの一人娘と結婚して家庭を持ち、ローレンスが社長を務めていたライノタイプ・アンド・マシナリー(Linotype & Machinery)に入社し、専務取締役として事業に携わるようになる。1900年にマルタで実施されたイギリス海軍の演習を視察した際に、艦砲射撃の精度が劣悪であることを認め、この技術的な問題を解決できないか検討を開始した。

当時、ライノタイプの取締役の一人だった物理学者ウィリアム・トムソンに相談したところ、海戦における艦艇の運動と砲弾の飛翔を考慮した方程式を解決すれば、必要な弾道計算を処理し、艦砲の射撃諸元を求めることは理論的に可能であると確信し、射撃管制装置の研究開発に着手した。1905年の試験は完全な成功とは言えなかったものの、一定の前進があったことが認められ、1909年に新会社としてアルゴ(Argo)を立ち上げた。新しい射撃管制装置はイギリス海軍でジョン・アーバスノット・フィッシャーや、アーサー・ウィルソン、ジョン・ジェリコーなどに支持され、海軍との契約を得ることができた。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、『ウェストミンスター・ガゼット』の編集者からの依頼に応じて海軍の問題に関する非常勤の論説委員として記事を掲載するようになった。1916年のユトランド沖海戦で主要紙が勝利と報道したのに対して、ポーレンはイギリス艦隊がドイツ艦隊を捕捉撃滅することができなかったことを指摘し、イギリス海軍の戦術的な問題を提起した。またドイツの潜水艦作戦によってイギリスの商船が受けた損害を検討し、イギリス海軍が護衛作戦に失敗していることを公然と批判した。イギリス海軍に対する批判的な姿勢は『戦闘におけるイギリス海軍(The British Navy in Battle)』(1918)でも打ち出された。この著作はアルフレッド・セイヤー・マハンの海軍戦略に影響を受けていますが、海軍戦術の方により重点があった。

当時の近代的な海戦における砲戦の問題が詳細に検討されている。イギリス海軍が作成したユトランド沖海戦の公式報告では、その内容が不正確であると批判し、第一次世界大戦以降にイギリス海軍がアルゴの製品を調達することはなかった。しかし、1926年にイギリス海軍で開発された射撃管制装置にはアルゴ製の射撃管制装置の技術が使われていることが調査委員会で指摘されており、3万ポンドの補償が支払われることになった。戦後、ポーレンは評論家としての活動から身を引き、バーミンガム・スモール・アームズの取締役に就任するなど、事業家としての活動に専念するようになった。

著作