佐藤鉄太郎

佐藤鉄太郎

佐藤鉄太郎(1866年8月22日 - 1942年3月4日)は、日本の海軍軍人、政治家であり、海軍史、海軍戦略の研究で知られている。マハンなどの研究成果を取り入れ、日本における海軍史、海軍戦略の研究を進めたことで知られている。

経歴

出羽国鶴岡城下(現山形県鶴岡市)出身。1884年に海軍兵学校に入校し、遠洋航海などを経て1889年に少尉に任じられた。1892年に海軍大学校を卒業してから砲艦「赤城」の航海長に就任し、1894年に勃発した日清戦争で黄海海戦(同年9月17日)に参加し、戦闘で負傷した。1899年に在英公使館付の駐在武官としてイギリスに、1901年に在米公使館付の駐在武官としてアメリカにそれぞれ滞在し、海軍史に関する調査研究を進めることができた。帰国して間もない1902年に海軍大学校教官に就任し、『帝国国防論』を出版したが、日本の国防においては四面環海という地理的特性を踏まえ、陸軍よりも海軍を主体にするべきだと主張した。

1904年に勃発した日露戦争では第2艦隊の参謀として勤務し、1905年に通報艦「龍田」で初めて艦長を務めた。1906年に海軍大学校の選科学生として入校しているが、1907年に学生と教官を兼務するなど、指導的立場にあった。1908年に巡洋艦「宗谷」の艦長を、1909年に「阿蘇」の艦長をそれぞれ務め、1910年に海軍大学校教官に復帰した。この年に出版した『帝国国防史論』においては、改めて陸上兵力ではなく、海上兵力によって日本を防衛すべきという主張を繰り返し、当時の日本で進められていた朝鮮半島、さらに満州に対する兵力の配備について批判を加えた。佐藤の議論は日本陸軍からは批判を受けたが、日本海軍では高い評価を受け、その後は第1艦隊参謀長、軍令部次長、海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官を歴任し、1923年に予備役に編入された。1934年に貴族院に議席を持ち、政治家としても活動した。東京にて死去。

著作

代表的な著作である『帝国国防史論』(1910)はその後も復刻されており、入手することはあまり困難ではない。『帝国国防史論』以外の著作も含めて佐藤の戦略論に全般的な関心がある場合は『戦略論体系』の解説を参照されたい。

  • 佐藤鉄太郎『帝国国防史論』全2巻、原書房、1979年
  • 戦略研究学会、石川泰志編『戦略論大系9:佐藤鉄太郎』芙蓉書房出版、2006年