核戦略の発展がソ連軍の作戦術にどのような影響を及ぼしたのか?

核戦略の発展がソ連軍の作戦術に
どのような影響を及ぼしたのか?

2021年2月13日

歴史的にソ連軍はいち早く作戦術(operational art)の重要性を認識し、そのドクトリンの開発に取り組んだ軍隊として知られています。この作戦術は、戦争全般の指導を規定する戦略(strategy)の下位、戦闘で部隊を運用する戦術(tactics)の上位に位置づけられる兵力運用のレベルであり、戦略上の目標を達成するため、広域的かつ連続的に複数の戦闘行動を連結させることを目的としています。

ソ連軍による作戦術の研究活動は、1930年代の後半にスターリン政権の下で断行された軍部の大粛清によって一時的に停滞しました。しかし、1941年の独ソ戦の勃発を受けて研究が活発になり、ソ連軍のドクトリンとして飛躍的に進歩を遂げました。ソ連軍が敵の前線を複数の地点で突破し、迅速に敵の後方地域に侵入する作戦機動を活用したのは、この作戦術の研究によるところが大きかったのです。

ところが、1945年に米軍で核兵器が開発されると、従来の作戦術の有効性に疑問の眼が向けられることになります。この時代のソ連軍の専門家が核戦略と作戦術を調整するためにドクトリンを見直していたことを研究者のデイヴィッド・グランツが明らかにしています。彼の著作『ソ連軍〈作戦術〉』(1991、邦訳2020年)の議論を紹介してみたいと思います。

フルシチョフ政権で発達したソ連軍の核戦略の思想とその影響

ソ連国内で軍事思想をめぐる大きな論争が起きたのはスターリンが死去した1953年以降のことでした。この時期に軍備と経済のバランスをめぐって意見の対立が生じたのです。一方の勢力はアメリカ軍の攻撃を抑止するためには、大規模な陸上戦力を維持するよりも、より安価な核戦力を重視することで、経済力を拡大するべきであると主張しました。有名な人物としてはゲオルギー・マレンコフ(1902~1988)がこちらの勢力に属していました。

この勢力に対してニキータ・フルシチョフ(1894~1971)の勢力は大規模な陸上戦力を維持することの重要性を主張していました。フルシチョフらは核戦力の重要性を重視せず、兵力の規模を保つために、財政的負担を許容するべきだと考えたのです。1953年にフルシチョフはマレンコフから政権を奪取したことで、この戦略論争にいったん決着がつきました。ところが、フルシチョフ政権は後になって核戦力の重要性を認める立場に変わり、1960年の「軍事における革命」に関する演説で核兵器の優越性を指摘し、地上軍の重要性が低下したことを認めたのです。

このような政治的な経緯があったため、ソ連軍も1960年代に核戦力の運用に関する研究を加速させました。グランツはソ連軍の内部で核兵器の重要性が増したことを示す動きとして、ソ連軍参謀総長ソコロフスキーによる『軍事戦略』(1962)の出版を挙げています。この著作でソコロフスキーは戦略核兵器はそれ単独で戦争の結果を左右することができる新しい装備であると主張し、将来の陸上作戦は核攻撃の効果を利用した上で敵の兵力を撃破し、その後で地域を占領する形になると予見しました(同上、228頁)。

グランツが調べたところ、ソコロフスキーの著作が出版される前から、ソ連軍で戦力組成を見直す動きがありましたが、1960年以降にその動きは加速しています(230頁)。1960年に戦略ロケット軍が独立軍種として新編され、1962年から1963年にかけて自動車化狙撃師団や戦車師団の規模を縮小し、戦術核兵器の配備が始まっています(230-6頁)。これらの改革によって作戦術のあり方も大きく見直される必要が出てきました。

核戦争を想定して再検討された作戦術

1960年から1968年にかけて、ソ連軍の作戦術が核兵器の使用を前提としながら再検討されていきました。核爆弾を使用する場合に考慮すべき作戦術の問題は、味方の部隊を限られた空間に集中することが不可能になるということです。大規模部隊を一カ所に集中させてしまうと、敵の核攻撃で一網打尽にされる恐れがあります。つまり、味方の兵力を広い地域に分散させた上で、必要に応じて素早く兵力を移動させることが新たな原則にせざるを得なかったのです(同上、245頁)。

グランツの研究はこの時期のソ連軍が攻勢作戦を発起する位置を敵からかなり離れたところに設定していたことを指摘しています。1968年のソ連軍では正面軍(陸軍の編制で軍の上位に位置づけられる軍集団に相当)の正面をおよそ400キロメートル、縦深を300キロメートル以上とすることが基準となっており、展開地域は12万平方キロメートル以上と見積もることができました。正面軍隷下の軍の正面については100キロメートル、縦深は120キロメートルから150キロメートルとなっていました(同上、244頁)。

ちなみに、1945年に広島に投下された原爆のような戦術核戦力が使用される場合を想定し、爆心地を中心に4キロメートルの範囲が被害を受ける前提で計算すると、1発あたり50.25平方キロメートル程度の面積が焦土と化します。これだけの範囲となると、敵軍の防御陣地に対して使用した際に、かなりの安全距離を保持する必要があることが分かります。

正面軍が攻勢をとる際には、敵部隊の主力と、敵の核兵器に対する核攻撃から開始されることが予定されているのですが、当時のソ連軍の作戦上のドクトリンでは、敵の防御線に突破口を開く際に核を使用することが定められており、味方の戦車部隊あるいは歩兵戦闘車に搭乗した歩兵部隊が行進縦隊のまま迅速に突破するという運用が構想されていたようです(同上、245頁)。

ソ連の軍事理論家の見解として、正面軍と軍の攻勢において敵部隊を分断しながら各個撃破するためには、複数の方向から同時に作戦を遂行することが有効であるという認識を持っていました。そして、(1)敵の核運搬手段との組織的戦闘、(2)核火力による敵部隊の破壊、(3)敵予備との交戦、(4)敵反撃部隊との交戦、(5)航空による前進部隊の継続的な支援、(6)前進する部隊のための継続的な工兵支援と化学防護支援、(7)昼夜間の攻勢展開、という措置が実際の選択肢として検討されていたことも明らかにされています(同上、247頁)。

核戦略の構想と作戦術の構想を整合させる難しさ

しかし、これらの措置をもってしても、ソ連軍が果たしてこのような作戦を遂行することができるかどうかは不透明でした。というのも、大規模な核攻撃に呼応し、我の部隊が敵地を縦深突破するような作戦術を採用する場合、軍司令官は味方の核攻撃の巻き添えになるリスクを冒すことがどうしても避けられません。グランツもこの当時のソ連軍の軍人がドクトリンの有効性に強い不安を感じていたことに触れています。

「核を背景にして、すべての活動をおこなうことが要求されたため、ソ連軍指揮官は、部隊の集中、部隊の編成、作戦の時期および火力支援に関する長年の原則を破らざるを得なかった。革命は、ソ連の理論家たちに戦争のすべての技法を徹底的に再検討させ、同時に、過去の経験、特に大祖国戦争(引用者注:第二次世界大戦)の経験を研究することの妥当性に疑問を投げかけている。本質的に、革命は、ソ連の軍事ドクトリンの領域に不安と不確実性を注入し、将来の戦争は必然的に核戦争になるという想定された事実によって軍事ドクトリンの状況は悪化した」(同上、253頁)

1968年に改訂されたソコロフスキーの『軍事戦略』でも、このことが意識されていた兆候があります。1962年版の『軍事戦略』では核攻撃によって陸上作戦の成果が決まるという立場が明確に打ち出されていましたが、1968年版の『軍事戦略』では、核戦力の可能性に疑問を投げかける立場が示されていました(同上、258-9頁)。この時期からソ連では核兵器を使用しない戦争を追求する動きがあったことは核戦略と作戦術を整合させる難しさが露呈したためであると考えられます。

今回の記事では、1960年代におけるソ連軍の作戦術に関するドクトリンがどのように変化したのかを見ましたが、結果として作戦術を核戦略に結び付ける試みは成功したとは言えないでしょう。グランツの研究はソ連の戦略思想において核戦力と通常戦力の関係をどのように位置づけていたのかを理解する上で重要な視点を与えてくれています。

このようなソ連軍のドクトリンは、アメリカ軍のドクトリンの歴史と照らし合わせると、さらに理解が深まるかもしれません。アメリカ軍の戦略思想史ではマクスウェル・テイラーが『大量報復政策批判(Uncertain Trumpet)』(1959)で核兵器に依存した大量報復を批判し、核戦争と在来戦の両方に包括的に対処できる軍事態勢の確立を主張しています。1961年にジョン・F・ケネディ(1917~1963)が大統領に就任すると、ケネディと個人的に親しかったテイラーは軍事顧問としてホワイトハウスに入っており、1962年には統合参謀本部議長に就任しています。

1967年に北大西洋条約機構がテイラーが提唱していた柔軟反応(flexible response)の戦略構想を正式に採用していることも、1968年に改訂されたソコロフスキーの『軍事戦略』の見解の変化を理解する上で重要な背景でしょう。