湾岸戦争における米軍の司令官たちの仕事ぶりを描いた『十字軍(Crusade)』を紹介

湾岸戦争における米軍の司令官たちの仕事ぶりを描いた『十字軍(Crusade)』を紹介

2020年7月31日

1993年、米国のジャーナリストだったリック・アトキンソン(Rick Atkinson)は『十字軍:湾岸戦争の語られていない物語(Crusade: The Untold Story of the Persian Gulf War)』を出版しています。これは湾岸戦争(1990~1991)でイラク軍をクウェートから撤退させた多国籍軍の作戦を、米軍の視点で描いた著作です。

この著作は学術書ではないのですが、学界でも評価を受けており、1994年に軍事史学を専門とする学会誌『ジャーナル・オブ・ミリタリー・ヒストリー』で米陸軍軍事史研究所の研究員が書評を発表しました(Dietrich 1994)。そこでは「湾岸戦争に関わった人々の性格、意思決定、そしてその実行を理解するための顕著な貢献」と述べられています(Ibid.: 175)。

H・ノーマン・シュワルツコフ(1934~2012)米陸軍軍人。湾岸戦争では中央軍の司令官を務めた。

中央軍司令官と第七軍団司令官の険悪な関係性

アトキンソンの著作は、湾岸戦争における米軍の作戦を批判的な立場で検討したものであり、特にジョージ・H・ブッシュ(George Herbert Walker Bush)大統領と、中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフ(H. Norman Schwarzkopf Jr.)陸軍大将の仕事ぶりに対しては厳しい視線を向けています。

アトキンソンは、ブッシュ大統領が戦前に後先を深く考えず驚くべき速さで開戦を決定したこと、戦後にはサダム・フセインをイラクの政権から排除せずに勝利を宣言したことを問題視しています。シュワルツコフの方は高圧的な態度で部下を指導したことが問題として指摘されており、戦域における部隊の作戦運用についても批判的に検討されています。

アトキンソンは湾岸戦争の歴史を書く際に、軍団司令官の視点を取り入れているのですが、ここではその中でも特に注目された第七軍団の行動を中心に紹介してみます。

中央軍司令官として多国籍軍の指揮をとることになったシュワルツコフは、第七軍団の司令官フレデリック・フランクス(Frederick M. Franks, Jr.)陸軍中将をあまり信用していませんでした。これは興味深い指摘であり、なぜならシュワルツコフがイラク軍に対して攻勢をとった際に主攻を担わせたのは、このフランクスが率いる第七軍団だったためです。

湾岸戦争が勃発するまで、第七軍団は西ヨーロッパを防衛する任務に備えていた部隊でした。この部隊を中東に送ることを決めたのはブッシュ大統領でした。機甲戦力を擁する第七軍団がイラク軍との戦闘に参加できることをシュワルツコフは歓迎したのですが、アトキンソンはフランクスを司令官としてあまり信頼していなかったことを説明しています。

「11月、シュワルツコフはブッシュ大統領が第七軍団をサウジアラビアに派遣すると発表したことを喜んでいたが、国防総省で勤務していた1980年代以来、フランクスのことを信用することができずにいた。(中略)シュワルツコフは第七軍団を「遅く、重く、鈍い」と酷評し、軍の攻撃において必要とされる「大胆、衝撃、奇襲」とは対照的なものであると見なしていた」(Atkinson 1993: 268)

フランクスは学者肌の陸軍軍人であり、非常に慎重に物事を進めるタイプでした。そのため、シュワルツコフはフランクスの運用をはっきりと批判することもあり、戦後も回顧録でフランクスの「気まぐれ」のせいで一部のイラク軍を取り逃したと書いたほどです。

フレデリック・M・フランクス(1936年~現在)米陸軍軍人、湾岸戦争では第七軍団の司令官を務めた。

シュワルツコフの大胆さとフランクスの慎重さ

しかし、アトキンソンはそのようなシュワルツコフの批判は公平ではなく、間違っていると主張しています。アトキンソンはフランクスが重要な役割を果たしていたことを指摘し、シュワルツコフの気の短さの方を問題視しています。

アトキンソンは多国籍軍の陸上部隊が攻勢を発起した24日の翌日に当たる2月25日の未明に司令部で起きたことを詳細に記述しています。当時、シュワルツコフは仮眠を終えてから状況図を確認し、戦況の把握に努めていましたが、第七軍団がまったく前進していないことに気が付き、その場で激しく怒りだしました(Ibid.: 405)。間もなく統合参謀本部議長のコリン・パウエルからも前線で何が起きているのか確認するように電話がかかってきたこともあり、シュワルツコフは第七軍団の指揮をとるフランクスにますます激高しました(Ibid.: 406)。

しかし、シュワルツコフの司令部はクウェート国境地帯から離れたリヤドに置かれており、第七軍団が作戦を開始した当初からイラク軍の激しい抵抗を受けていたことを知りませんでした。当時、フランクスは米国国内の政治情勢を配慮し、人的な損害を最小限にするために、軍団の戦闘力を適切に集中しようとしていたのです(Ibid.: 406-7)。

前線でフランクスはシュワルツコフが怒っていることを知らされ、一瞬言葉を失いました。フランクスはシュワルツコフに解任される可能性がありました。しかし、フランクスはシュワルツコフが望む速さで第七軍団を前進させることに抵抗しました(Ibid.: 421)。イラク軍の一般部隊は全般的に適切な指揮統制、後方支援を受けておらず、その戦闘力は劣弱でした。しかし、フランクスの第七軍団の正面にいたのはイラク軍の精鋭である共和国防衛隊であり、しかも3個の師団が防御陣地を占領していました(Ibid.: 422)。

もし第七軍団がここを急いで突破しようとすれば、味方が甚大な被害を出す恐れがあったため、フランクスは事前に偵察や調整に時間を費やす必要があると判断しました。第七軍団は多数の機甲部隊で編成されていたため、後方支援でも燃料の補給を絶対に絶やせないという制約があったことも、フランクスの行動を制限していました。

アトキンソンはフランクスがシュワルツコフの作戦構想を理解していたものの、砂漠の真ん中で第七軍団への兵站支援が途絶することがないように慎重に行動していたと述べています(Ibid.: 424)。その慎重さによって、第七軍団はその後の戦闘で重要な戦果を上げています。

2月26日にイラク軍が一斉にクウェート市街から退却を始めた際に、その退路を守る共和国防衛隊を73イースティングの戦闘で撃破したのは第七軍団の戦果でした。さらにフランクスの第七軍団は2月27日の戦闘でイラク軍の機甲部隊を撃破し、クウェートの解放に貢献しています。同日、ブッシュ大統領は停戦を決めており、2月28日午前8時に停戦が発効して戦争は終わりました。

むすびにかえて

アトキンソンの著作は湾岸戦争における米軍の内情を明らかにする上で大きな貢献を成し遂げたと言えます。アトキンソンは湾岸戦争における米軍の戦果が、軍団司令官の貢献によるものであることを、さまざまな当事者の証言を交えて解説しています。

シュワルツコフの指揮統率の問題点をアトキンソンは厳しく指摘していますが、一方でシュワルツコフが巨大な多国籍軍を動かすためには、部下に自分の命令を徹底させる必要があったことも事実であり、その意図については理解を示す記述も見られます。

この著作の弱点は、それぞれの記述に対応する史料が明記されていないことです。脚注の不備は重大な欠陥として指摘しなければなりません。しかし、アトキンソンはこの現代史を書くために可能な限り多くの関係者に面接調査を実施していることは明らかであり、これは将来の歴史学者が調査研究を発展させるための足場となるものとして価値があると思います。

武内和人(Twitterアカウント

参考文献