エクルス

エクルス

ヘンリー・エクルス(Henry Effingham Eccles, 1898年12月31日 - 1986年5月14日)はアメリカの海軍軍人である。兵站理論に関する研究業績によって知られている。

経歴

アメリカのニューヨーク市で米国聖公会の聖職者の家に生まれた。コロンビア大学に入学を果たしたが、海軍兵学校に移り、1922年に卒業した。初めて乗組員となったのは戦艦だったが、その後で潜水艦乗りの道に進んだ。1930年にコロンビア大学大学院で機械工学の修士号を取得し、アメリカ海軍で初めて設置された潜水艦基地であるニューロンドン海軍潜水艦基地で勤務した。

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、アメリカ海軍でアジア艦隊の増強が急務となり、1940年にアジア艦隊所属の駆逐艦ジョン・D・エドワーズの艦長に任命された。1941年に真珠湾攻撃が発生した当時、駆逐艦ジョン・D・エドワーズはフィリピンに基地を置き、東南アジア方面で任務についていたため、1942年2月20日に起きたバリ島沖海戦にも参加した。この戦闘はアメリカ海軍にとって敗北に終わり、対日連合作戦を指揮するために置かれた米英豪蘭司令部(Australian-British-Dutch-American (ABDA) Command)に数日だけ配属されたが、艦艇での勤務に復帰して1942年2月27日のスラバヤ沖海戦に参加している。

戦闘の際に負傷したことが原因で艦長の任を解かれたが、1942年のうちに健康状態が回復したため、海軍作戦部長の下で基地の整備に関する業務を担当し、ここで1943年まで前進基地の兵站計画を調整した。その後も引き続き前進基地の兵站問題に取り組み、1943年から1945年までは太平洋艦隊司令部で対日戦に関する前進基地の兵站活動に関する業務を担当していた。戦後、海軍省で設置された第二次世界大戦の統合作戦を評価する検討会議に参加し、また1947年に退役を控えた戦艦ワシントンの艦長を務めた。

1947年には海軍大学校に配属され、兵站学の研究を始めた。1951年に離任するまでの間に、エクルズは海上作戦の兵站支援に関する研究成果を残している。その後、エクルズは東大西洋及び地中海開城部隊司令官(Commander, U.S. Naval Forces, Eastern Atlantic and Mediterranean)の兵站幕僚となった。同時期には北大西洋条約機構の地中海戦域を担当する南欧連合軍司令部司令官の兵站幕僚も兼務し、イタリアのナポリで勤務した。1952年6月に海軍を退いてからは、1985年に引退するまで海軍大学校で軍事理論や兵站について教えた(兵站学の専門家は、無計画が莫大な無駄を作り出すことを警告している)。マサチューセッツ州のニーダムにて死去。

著作

エクルスの著作は兵站の研究で広く知られており、例えば「質、量、時間の3つすべてを同時に最適化することはできない」という兵站支援のトリレンマはエクルスの著作に由来する(Eccles 2003: 209)。しかし、日本語に翻訳されたものがなく、また原著も現在では入手しずらい。主著『国防における兵站(Logistics in the National Defense)』は1959年の初版以降、1981年、1997年と版を重ねており、比較的入手が可能になっている。ただし、ハードカバー版は中古市場でしか流通しておらず高価である。