カルノー

カルノー

ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot, 1753年5月13日 - 1823年8月2日)はフランスの陸軍軍人、政治家である。フランス革命戦争においてフランス軍の態勢を立て直した功績で知られている。

経歴

ブルゴーニュのノレー出身。弁護士を営む平民の家に生まれ、神学校を経て1771年に工兵士官学校に入学し、そこで数学を学んだ。1773年に工兵科将校として部隊に配属され、余暇を利用して数学、物理学、軍事学を研究した。1789年にフランス革命が勃発し、1791年に名家のデュポン家の娘と結婚したことで、政界に入る足掛かりを得て、同年に立法議会議員に選出された。フランス革命戦争が勃発するとフランス軍の立て直しに尽力し、1792年に国民公会の議員に選出された。引き続きカルノーは軍事行政の任務に当たり、一般徴兵制の導入を実現するだけでなく、戦闘で陣頭指揮をとることもあった。その功績が認められたことから1794年に国民公会議長に就任した。

ロベスピエール派に対するクーデターが起きてから元老院に鞍替えし、総裁政府の初代総裁の一人に選ばれた。1797年のクーデターによってドイツのニュルンベルクに亡命することを余儀なくされた。1799年にナポレオンがブリュメール18日のクーデターを起こたことを受けてフランスに帰国し、1800年に戦争大臣を務め、1802年に護民院議員に就任した。1804年にナポレオンが皇帝に即位したことには反対し続けたが、すでに政界での影響力はほとんど失われており、1807年に護民院が廃止されると政界からいったん退いた。

ナポレオン戦争が進展して1814年に敵がフランス本土に迫ると、カルノーは軍務に復帰してアントウェルペンの総督として同市の防衛を指揮した。王政復古でルイ十八世が王位に就任したことで、再び政治の世界から退いたが、ナポレオンが百日天下でパリに戻った際には内務大臣を務めた。ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れてイギリスに亡命したため、再びフランスから追放されている。ドイツのマクデブルクにて死去。

著作

軍事学史においてカルノーが注目される理由の一つは、ヴォーバンが唱えた籠城戦の考え方を、カルノーが継承して発展させたためである。ヴォーバンは築城技術によって強固な防衛線を構成するだけでなく、逆襲に転じる戦機を逃さないことの意義も指摘していたが、カルノーは要塞の設計、構築において、このことを考慮することが重要だと主張した。

論文「要塞の防衛に関する論考(De la défense des places fortes)」(1810)はフランス陸軍の将校に向けて書かれたもので、国境地帯に建設された要塞が攻勢作戦においてどのように機能するのか、どのように戦略的に役立つのかを解説し、またその防御戦闘の戦術についても考察している。日本語に翻訳されていないが、英語の翻訳で読むことができる。