リュストウ

ヴィルヘルム・フリードリヒ・リュストウ

ヴィルヘルム・フリードリヒ・リュストウ(Friedrich Wilhelm Rüstow, 1821年5月25日~1878年8月14日)はプロイセンの陸軍軍人である。

経歴

ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル出身。ハイデルベルク大学で法学を学んでいたが、1838年にプロイセン陸軍の砲工兵学校(Vereinigte Artillerie und Ingenieurschule)に入校し、1840年の卒業を経て少尉に任官する。職務の傍らに軍事学の調査研究を続け、1843年に最初の著作『要塞理論の基礎(Grundlinien Zu Einer Philosophie Der Befestigungen)』を匿名で出版した。政治に対する関心が強く、1848年のドイツにおける革命に参加していた。1850年に出版された『革命の前と最中におけるドイツ軍事国家(Der deutsche Militärstaat vor und während der Revolution)』の内容が問題となったために逮捕されたが、刑務所から脱出し、スイスに亡命した。しばらく講師や著述の仕事で生計を立てていたが、1860年に指導者ジュゼッペ・ガリバルディの軍に参謀長として加わり、第二次イタリア独立戦争に従軍する機会を得た。しかし、1860年にガリバルディがサルデーニャ王国に領土を献上したため、スイスに帰国することにした。帰国後も軍事学に関する著述で生計を立てたが、生活は苦しくなる一方であり、1870年に普仏戦争が勃発すると、プロイセン陸軍に復帰しようと試みている。しかし、過去の不名誉な除隊のために願いは叶わなかった。1877年にスイス連邦工科大学で軍事学教授に任命されたが、同年のうちに解任され、自宅で拳銃により自殺した。チューリッヒで死去。

業績

リュストウは19世紀のヨーロッパで著名な軍事学者だったアントワーヌ・アンリ・ジョミニの理論に強い影響を受けていたため、軍事技術が発達したとしても、戦略の原則が変化することはないという立場をとっていた。リュストウの業績で特によく知られているのは普仏戦争を分析した『1870年のライン川流域をめぐる戦争(Der Krieg um die Rheingrenze 1870)』(1870)である。1871年に英訳されているが、日本語には翻訳されていない。

  • Rüstow, Wilhelm. 1870. Der Krieg um die Rheingrenze 1870, Zürich: Friedrich Schulthess.

  • Rüstow, W. The War for the Rhine Frontier 1870: Its Political and Military History. 3 Vols. Translated by John Layland Needham. London: William Blackwood and Sons, 1871.