イブン・ハルドゥーン

イブン・ハルドゥーン

イブン・ハルドゥーン(Ibn Khaldun, 1332年5月27日 - 1406年3月19日)はチュニス出身の思想家、政治家である。現代では『歴史序説』を書き記し、王朝の興亡をアサビーヤという概念で説明したことで知られている。

経歴

チュニス出身。有力な貴族ハルドゥーン家に生まれ、幼少期から学問で優れた才能を示した。チュニスを首都に置くハフス朝の宮廷に書記官として仕官したが、1352年に王朝の将来に見切りをつけて脱走した。1354年に北アフリカで勢力を拡大していたマリーン朝の首都だったフェズへ赴き、スルタンのアブー・イナーン・ファーリスの宮廷に書記官になった。しかし、1356年に謀反を計画したことが露呈し、アブー・イナーンが死去するまで投獄された。その後、マリーン朝は後継者の地位をめぐって政治的に分裂し、1359年に先代の弟アブー・サーリムがスルタンに即位することを助け、その功績で国璽尚書に抜擢された。

ところが1361年にアブー・サーリムが暗殺された。思い描いた地位に就けず、フェズを離れてイベリア半島のグラナダへ移った。当時、グラナダを支配したナスル朝スルタンのムハンマド五世の宮廷に迎えられたが、間もなくハフス朝の王族の紹介で地方勢力のベジャーヤの宮廷に執権として仕えた。しかし、間もなくベジャーヤがザイヤーン朝によって攻め落とされ、再び仕事を失った。その後、学問の研究に本格的に取り組み、アルジェリア、エジプトを転々としながら著作『歴史(كتاب العبر, kitāb al-ʿibar)』を記した。その功績がマムルーク朝のスルタンであるバルクークに評価され、大法官に取り立てられたが、クーデターに関与した容疑で失脚した。いったんエジプトを離れたが、再び大法官に任命され、死去するまでその地位に留まった。

業績

イブン・ハルドゥーンは『歴史』を3部構成にしており、その第1部を歴史を研究するための基本的な枠組みを述べることに割いている。アサビーヤという概念はそこで述べられているものであり、これは集団が連帯して組織的な行動を起こす能力を指しており、ある民族が戦争を遂行する能力と深い関係がある。イブン・ハルドゥーンの説によれば、アサビーヤに優れているのは、地方において遊牧生活を営む集団である。彼らは領土を防衛するだけでなく、領土を拡張する能力に優れており、隣接するアサビーヤがより劣っている都市の住民を武力で支配下に置き、貢納物を獲得する。

このようにして王朝の支配関係が確立されるが、支配階級を形成した集団は、次第に税率を引き上げて財産の蓄積を図り、贅沢な生活を送るようになる。これによってその集団のアサビーヤは急速に失われていき、それは世代交代を通じて進行していく。そして、最終的には武勇を尊ぶ気風はなくなり、別の勢力から攻撃を受けたとしても、自国の領土を防衛することができなくなり、滅亡に至る。これがイブン・ハルドゥーンが考える王朝の興亡の典型的なパターンであり、あらゆる時代を通じて繰り返されているサイクルとして捉えられている。